G. H. ハーディーの肖像(Godfrey Harold Hardy 1・出典: Wikimedia Commons・作者不明・Public domain)
Godfrey Harold Hardy 1
出典: Wikimedia Commons・作者不明・Public domain

G. H. ハーディー

Godfrey Harold Hardy

解析的整数論を進め、遺伝の割合の釣り合いの式も書いた

生没年
1877–1947
地域
イングランド

生涯

1877 年 2 月 7 日、イングランド南部サリー州のクランリーで生まれた。父はクランリー校の会計係で美術の教師、母は教員養成学校の教師だった。1890 年にウィンチェスター校に入り、1896 年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進んで、1900 年にフェローに選ばれた。

1908 年、遺伝の割合が世代を重ねても変わらないことを示す短い手紙を『サイエンス』に寄せた。本人はこれを大事な仕事とは考えていなかった。1911 年からリトルウッドと 35 年ほど共同研究を続け、解析的整数論で多くの成果をあげた。1913 年の初めにはインドのラマヌジャンから最初の手紙を受け取り、1914 年にはラマヌジャンがケンブリッジに来た。1919 年にオックスフォード大学のサヴィル幾何学教授、1931 年にケンブリッジ大学のサドラー教授となった。

数学のほかに最も熱中したのはクリケットだった。写真に撮られるのを嫌い、知られているスナップ写真は 5 枚しかない。1940 年に『ある数学者の弁明』を書いた。1947 年 12 月 1 日、ケンブリッジで没した。

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