生涯
1895年6月2日、ブダペストで生まれた。1913年にブダペストの工科大学で土木工学を学び始めたが、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー軍の中尉としてロシア戦線に送られ、1916年に捕虜となった。シベリアのトボリスク近くの収容所で、同じ捕虜だった数学者エドゥアルト・ヘリーから数学を教わった。のちに収容所を抜け出し、北極圏を何千マイルも西へ旅して、1920年にハンガリーへ戻った。
セゲド大学でフリジェシュ・リースのもとで学び、1923年に博士の学位を得た。1930年、石けん膜が張る面を問うプラトー問題の解を発表し、同じ年にアメリカのオハイオ州立大学の教員となった。1946年から1948年まで数学科の主任を務め、1964年に退職するまで同じ大学で教えた。
晩年は計算の理論に関心を移し、1962年の論文「計算できない関数について」で、n状態のチューリング機械が止まるまでに書く1の数と歩数の最大を競う、ビジービーバーのゲームを考えた。1965年には大学院生シェン・リンとの共著で、3状態の値を計算機で求めた論文を出した。1965年12月、フロリダ州ニュースマーナビーチで没した。
