
出典: Wikimedia Commons・Kmhkmh・CC BY 3.0
生涯
1913年3月26日、ブダペストで生まれた。両親はともに数学の教師で、生まれる数日前に2人の姉を猩紅熱で亡くしていた。1930年に大学へ進み、1934年にパーズマーニ・ペーテル大学で博士の学位を得ると、ユダヤ系だったためにハンガリーを離れ、イギリスのマンチェスターで研究員になった。1938年にはアメリカへ渡り、プリンストンなどで研究を続けた。
ブダペストの学生時代には、ジョージ・セケレシュやエスター・クラインと問題を出し合っていた。クラインの問いから生まれた1935年のセケレシュとの論文で、ラムゼーの定理に新しい証明を与え、ラムゼー数を上から押さえた。1947年には、条件を満たすグラフを1つも作らずに存在だけを示す議論で、下からの評価を示した。この考え方は、のちに確率の方法として組合せ論の大きな道具になる。
決まった家を持たず、数学者の家から家へ移りながら共同研究を続け、論文は1,500本を超える。1983年にウルフ賞を受けた。暮らしにはほとんどお金を使わず、講演で得た謝礼の多くを、学生の支援や自分の出した問題の懸賞金に回した。1996年9月20日、ワルシャワで没した。