線路の上の音楽家
1845 年 6 月 3 日、オランダのユトレヒトとマールセンの間の線路で、変わった実験が行われた。
蒸気機関車が、屋根の無い貨車を引いて走る。貨車にはホルン奏者が乗り、決まった高さの音を吹き続ける。列車と駅のホームには、音の高さを聞き分けられる耳の良い観測者が待ち、列車が近づくときと遠ざかるときに聞こえた音を書き留めた。英語の解説ではトランペット奏者と書かれることもあるが、オランダ気象研究所(KNMI)が 2005 年に出した記事では「ホルン奏者(hoornist)」である。
実験を組んだのは、ユトレヒト大学の若い学者クリストフ・ボイス・バロットである。のちにオランダ気象研究所を創設し、天気図の「ボイス・バロットの法則」に名を残す人である。
確かめたかったのは、3 年前にプラハのクリスティアン・ドップラーが出した説だった。音や光を出すものが近づくと波の振動数は高くなり、遠ざかると低くなる、という説である。ボイス・バロットはこの説を疑っていた。とくに、星の色の違いを星の動きで説明しようとするドップラーの主張には納得していなかった。
結果は、ドップラーの式のとおりだった。列車が近づく間、ホルンの音は高く聞こえ、通り過ぎると低く聞こえた。ボイス・バロットは同じ年、『物理学年報』に「オランダの鉄道での音響実験、およびドップラー教授の理論についての所見」として報告した。音については説を認めたうえで、星の色の説明には反対を述べている。
この点では、ボイス・バロットが正しかった。星の動く速さは光の速さに比べてずっと小さく、色が目に見えて変わることはない。ただし、ドップラーの考えそのものは、のちに光でも確かめられ、宇宙を測るいちばん大切な道具の 1 つになった。
起源
クリスティアン・ドップラーはオーストリアの数学者・物理学者で、プラハの工業学校の教授だった。1842 年 5 月、ボヘミア王立科学協会で「二重星と天のいくつかの星の色のついた光について」と題して発表し、翌年に論文として出版した。
ドップラーは、海で船が波に向かって進むと、波に出会う回数が増えるという例で説明した。音でも光でも、波を出すものと受け取るものが近づけば、受け取る振動数は増え、遠ざかれば減る。この考え自体は正しかった。ただし、論文の題にある二重星の色の説明は、速さの見積もりが大きすぎ、成り立たなかった。
1845 年のボイス・バロットの実験で、音の効果は確かめられた。光については、フランスのイポリット・フィゾーが 1848 年に独立に考え、星の光のスペクトルの中の暗い線(吸収線)の位置がずれるはずだと指摘した。色が変わるのではなく、線の位置がずれるのを測ればよい、という考えである。フランスでは「ドップラー・フィゾー効果」と呼ぶことがある。
1868 年、イギリスのウィリアム・ハギンズは、シリウスのスペクトル線のずれから、星が視線の方向にどれだけの速さで動いているかを初めて見積もった。1912 年にはアメリカのヴェスト・スライファーが、アンドロメダ星雲が秒速およそ 300 km で近づいていることを測った。スライファーがその後に測った多くの銀河は、ほとんどが遠ざかっていた。これが、1929 年に発表される宇宙の膨張の法則の手がかりになった。
証明
音の速さを とする。音源は振動数 の音を出し、音源と観測者は同じ直線の上にいて、互いに近づく向きの速さをそれぞれ 、 とする。空気は止まっているとする。
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音源は 1 秒間に 回振動する。1 回振動する時間 の間に、出た波の先は 進み、音源は同じ向きに 進む。
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音源の前方では、隣り合う波の山の間隔(波長)が縮む。
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止まっている観測者には、この波が速さ で届く。1 秒間に届く山の数は
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次に、観測者が速さ で音源へ向かって動く場合を考える。観測者から見ると、波は速さ で通り過ぎる。波長は変わらないので
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2 と 4 を合わせ、波長に を入れると
遠ざかるときは、 と を負の数にすればよい。
音源が動く場合と観測者が動く場合で式の形が違うのは、音が空気という媒質を伝わる波だからである。光には媒質が無く、相対的な速さ だけで決まる。特殊相対性理論では となり、 が光速 よりずっと小さいときは で、音の式と同じ近似になる。
音源の速さが音速に近づくと、2 の波長は 0 に近づき、前方の波が重なる。音速を超えると、波は円すいの形に重なって衝撃波になる。
応用
救急車のサイレン。 東京消防庁の消防科学研究所の報告では、救急車の「ピーポー」の規定値は、高い「ピー」が 960 Hz、低い「ポー」が 770 Hz である。時速 60 km(秒速 16.7 m)で走る救急車が近づくとき、音速を 340 m/s とすると
遠ざかるときは Hz になる。すれ違う瞬間に、音は 95 Hz ほど、半音 2 つ近く下がる。
スピード測定器。 警察のスピード測定器や野球の球速の測定器は、電波を当てて、はね返ってきた電波の振動数のずれを測る。はね返りでは、動く物が受け取るときと送り返すときの 2 回ずれるので、ずれは になる。24 GHz の電波で時速 100 km(秒速 27.8 m)の車を測ると、ずれは Hz である。
超音波で血流を測る。 病院の超音波ドップラー検査では、5 MHz ほどの超音波を体に当て、血液の中の赤血球からはね返る音のずれを測る。体の中の音速は約 1540 m/s なので、秒速 0.5 m で流れる血液では、ずれは Hz になる。ちょうど耳に聞こえる高さで、検査の装置は実際にこれを音として鳴らす。
系外惑星。 惑星が回ると、恒星もわずかに揺れ、近づいたり遠ざかったりする。恒星の光のスペクトル線がわずかに行き来するのを測って、1995 年、マイヨールとケローはペガスス座 51 番星の惑星を見つけた。
図示
シミュレーション
音源は止まり、すっと動き出し、また止まる。止まっている間は波面が同心円になり、動いている間は前方の波面が詰まる。丸い点(観測者)をドラッグすると、その場所で聞こえる振動数が下に出る。聞こえる高さは、波面が届くまでの時間だけ遅れて変わる。速さを音速より大きくすると、波面が重なって円すいの形の衝撃波ができる。
広がる学問
- 物理学 原子や分子が熱で動き回ると、出す光の振動数がばらばらにずれ、スペクトル線が太くなる(ドップラー幅)。線の太さから気体の温度がわかる。レーザーで原子を冷やす方法も、このずれを使っている。
- 天文学 星や銀河のスペクトル線のずれから、視線方向の速さを測る。連星の軌道、系外惑星、銀河の回転、宇宙の膨張は、どれもこの方法で調べられた。
- 医学 超音波ドップラー検査で、心臓の弁の逆流や、血管の詰まり、胎児の心拍を調べる。
- 地球科学 気象レーダーは、雨粒からはね返る電波のずれから、雨粒が近づいているか遠ざかっているかを測り、風の向きや竜巻のもとになる渦を見つける。
- 工学 スピード測定器、自動車の衝突を防ぐレーダー、GPS の受信機は、電波の振動数のずれを使って速さを求める。
参考文献
- Christian Doppler, "Über das farbige Licht der Doppelsterne und einiger anderer Gestirne des Himmels", Abhandlungen der Königlichen Böhmischen Gesellschaft der Wissenschaften (1843).
- C. H. D. Buys Ballot, "Akustische Versuche auf der Niederländischen Eisenbahn, nebst gelegentlichen Bemerkungen zur Theorie des Hrn. Prof. Doppler", Annalen der Physik und Chemie 66 (1845).
- KNMI, "Doppler-experiment Buys Ballot 160 jaar geleden" (2005).
- 東京消防庁 消防科学研究所の報告(1993 年)。救急車のサイレン「ピー」960 Hz・「ポー」770 Hz の規定値を載せる。
- M. Mayor and D. Queloz, "A Jupiter-mass companion to a solar-type star", Nature 378 (1995), 355-359.