兄弟 2 人か、いとこ 8 人か
イギリスの遺伝学者 J. B. S. ホールデンは、兄弟 2 人か、いとこ 8 人のためなら命を投げ出す、と言ったと伝えられる。
この話の出どころは、ホールデンの教え子だったジョン・メイナード・スミスの回想である。メイナード・スミスは 1975 年、『ニュー・サイエンティスト』に寄せた書評「自殺による生き残り」に、こう書いた。ロンドンのユーストン・ロードのそばにあったパブ「オレンジ・ツリー」で、ホールデンが封筒の裏で何分か計算したあと、いとこ 8 人か兄弟 2 人のためなら命を投げ出す用意がある、と言った。翌年、ハミルトンは同じ雑誌への手紙でこの話に疑問を示した。メイナード・スミスは、自分の記憶は確かだと思う、1955 年ごろのことだろう、と答えている。ホールデン自身が書いたものに、この言い回しは見つかっていない。引用集に載る「私は兄弟 2 人か、いとこ 8 人のためなら命を投げ出す」という形は、この 1 人の回想を本人の言葉の形に整えたものである。
ホールデン自身が書いたもので確かめられるのは、1955 年に一般向けの雑誌『ニュー・バイオロジー』に寄せた「集団遺伝学」の一節である。ホールデンはそこで、溺れかけた子どもを助けに川へ飛び込む性質の遺伝子を考えた。自分が溺れ死ぬ見込みが 10 回に 1 回だとする。助ける相手が自分の子や兄弟姉妹なら、その子が同じ遺伝子を持つ見込みは半分なので、失う 1 つの遺伝子に対して 5 つが助かる。孫や甥なら 2.5 対 1、いとこなら効き目はごく小さい。そしてホールデンは、自分は 2 度、溺れかけた人を水から引き上げたことがあるが、そのときにこんな計算をする暇は無かった、と書き添えている。
この考えを一般の式にし、生き物の社会の進化の理論に組み上げたのは、ホールデンより 40 歳あまり若いウィリアム・ドナルド・ハミルトンである。ハミルトンはロンドンの大学院で、人口学から遺伝学へと指導の先生を替えながら研究を進めた。1964 年、27 歳で「社会行動の遺伝的進化」という 2 部の論文を発表する。数学が込み入っていて、2 人の査読者は判断を見送り、3 人目のジョン・メイナード・スミスが、すべては分からないまま重要さを認めた、と伝えられる。論文の中でハミルトン自身も、兄弟なら 2 人より多く、いとこなら 8 人より多くを救えるときに命を差し出す、という同じ計算に触れている。論文ははじめほとんど読まれなかったが、10 年ほどのうちに、生き物の協力を考えるときの出発点になった。
ハミルトンは 2000 年 3 月、コンゴ民主共和国への調査の旅から戻ったあと、63 歳で亡くなった。死因審問は、十二指腸の憩室からの出血による多臓器不全と結論した。旅の間にマラリアにかかっていたが、死因との関わりがあったとしても間接的とされる。
起源
問題は、ダーウィンの時代からあった。働きアリや働きバチは、自分では子を産まず、巣の仲間のために働く。自分の子を多く残す性質が選ばれるという自然選択の考えでは、子を産まない働き手は説明しにくい。ダーウィンは 1859 年の『種の起源』第 7 章「本能」でこの難しさを認め、選択は個体だけでなく家族にもはたらきうる、と書いた。
1930 年、ロナルド・フィッシャーは『自然選択の遺伝学的理論』で、まずい味のする毛虫が目立つ色をしている理由を考えた。鳥に食べられた毛虫は死ぬが、鳥がまずさを覚えれば、近くにいる兄弟の毛虫が助かる。兄弟は同じ遺伝子を持ちやすいので、目立つ色の遺伝子は広がりうる。1932 年にはホールデンも『進化の要因』で、親族を助ける行動について同じ方向の議論をしている。
ハミルトンは、これを「包括適応度」という量にまとめた。個体が残す自分の子の数だけでなく、自分の行動が親族の子の数に与える影響を、血縁度で重みをつけて足し合わせたものである。血縁度 は、相手が自分と同じ祖先に由来する同じ遺伝子を持つ確率で、親子と兄弟姉妹で 1/2、祖父母と孫・おじおばと甥姪・異父母のきょうだいで 1/4、いとこで 1/8 になる。
1970 年には、アメリカ出身の化学者ジョージ・プライスが、形質の平均が世代ごとにどう変わるかを共分散で書く「プライスの式」を発表した。ハミルトンの規則は、この式からも導ける。
証明
遺伝子の側から数える。ある遺伝子を持つ個体が、自分の子の数を だけ減らして、相手の子の数を だけ増やす行動をとるとする。
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自分の子は、その遺伝子を確率 1/2 で受け継ぐ。子が 減ると、次の世代でその遺伝子の写しは平均 減る。
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相手がその遺伝子を同じ祖先から受け継いでいる確率は血縁度 。相手の子が 増えると、写しは平均 増える。
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遺伝子が集団の中で増えるのは、差し引きが正のときである。
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両辺に 2 を掛けて、ハミルトンの規則を得る。
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兄弟姉妹の血縁度。母から来た遺伝子を相手も母から受け継いでいる確率が 1/2、父の側も同じで、それぞれが自分の遺伝子の半分を占めるので
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いとこの血縁度。共通の祖父母の 1 人を通る道は、自分から親、祖父母、おじおば、いとこへの 4 つの受け渡しで、それぞれが 1/2 の確率である。祖父母は 2 人いるので
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自分の命 1 つ()と引き換えに、同じだけの子を残せる親族 人を助けるとき、規則は になる。境目は
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ミツバチやアリのメスは父の遺伝子をすべて受け継ぐ(オスは染色体を 1 組しか持たない)。姉妹どうしは父の側を必ず共有し、母の側を 1/2 の確率で共有するので
手順 7 が、ホールデンの言葉の計算そのものである。手順 8 は、働きバチが自分の娘()を育てるより、妹()を育てる方が遺伝子を多く残せることを示し、ハミルトンはこれをハチやアリの社会の説明に使った。ただし、その後の研究で、シロアリのように染色体を 2 組ずつ持つ生き物にも同じような社会があり、この 3/4 だけでは説明が足りないことが分かっている。
野外の観察でも確かめられている。1977 年、ポール・シャーマンは、ベルディングジリスが天敵を見つけて警戒の声を上げる頻度を調べた。声を上げると自分が狙われやすくなるが、近くに血縁のメスがいる個体ほど、よく声を上げた。2010 年には、カナダのアメリカアカリスで、母親を失った子を引き取る行動が、血縁度と得と損の計算が規則を満たすときにだけ起きていたと報告された。
応用
計算の例。 助けるのにかかる損が のとき、得が なら、兄弟()や異父母のきょうだい()のうち、規則を満たすのは兄弟だけである。いとこを助ける性質が広がるには、得が損の 8 倍を超える必要がある。
微生物の協力。 細菌の中には、鉄を取り込むための物質を外に出し、周りの菌もその恩恵を受ける種類がある。物質を作らずに恩恵だけ受ける菌が得をするはずだが、近縁の菌どうしが集まる条件では、作る菌が保たれやすいことが実験で示されてきた。病原菌の毒性や、薬に対する抵抗の広がりを考えるときにも、この見方が使われる。
見分けの手がかり。 血縁を助ける性質が広がるには、相手が血縁であることを見分ける手がかりが要る。育った巣が同じ、匂いが似ている、といった手がかりの研究が、鳥や虫で進められている。
図示
シミュレーション
左の天秤は、自分の損 と、助ける相手の の合計を比べる。円の塗った部分が、相手と共有する遺伝子の割合である。はじめは兄弟 2 人で、天秤はちょうど釣り合う。相手や人数を変えると天秤がすっと傾いてゆっくり止まり、右のグラフで、助ける性質の遺伝子が増えるか減るかが分かる。
広がる学問
- 生物学 アリやハチの社会、鳥の巣で親の子育てを手伝う若鳥、群れで警戒の声を上げる哺乳類など、協力の進化を説明する中心の考えである。2010 年にはノヴァクらが包括適応度の考えを批判し、翌年 100 人を超える研究者の反論が出るなど、いまも議論が続いている。
- 数学 遺伝子の頻度の変化を共分散で書くプライスの式や、協力と裏切りの得点を比べる進化ゲーム理論と結びついている。血縁度の計算は、家系図の上の道をたどる確率の計算である。
- 心理学 進化心理学では、命にかかわる場面ほど人は近い親族を助けると答える傾向が、質問紙の研究で報告されている。
- 経済学 損と得を比べて行動が選ばれる、という形は経済学の意思決定と同じである。経済学者セオドア・バーグストロームは 1995 年、兄弟の間の助け合いを、血縁度を入れたゲームとして分析した。
参考文献
- W. D. Hamilton, "The Genetical Evolution of Social Behaviour. I, II", Journal of Theoretical Biology 7 (1964), 1-16, 17-52.
- J. B. S. Haldane, "Population Genetics", New Biology 18 (1955), 34-51.
- R. A. Fisher, The Genetical Theory of Natural Selection (Clarendon Press, 1930).
- George R. Price, "Selection and Covariance", Nature 227 (1970), 520-521.
- Paul W. Sherman, "Nepotism and the Evolution of Alarm Calls", Science 197 (1977), 1246-1253.
- John Maynard Smith, "Survival through suicide", New Scientist (28 August 1975).
- Martin A. Nowak, Corina E. Tarnita, Edward O. Wilson, "The evolution of eusociality", Nature 466 (2010), 1057-1062.