タレスのオリーブ搾り機
アリストテレスの『政治学』第 1 巻に、哲学者タレスについての話が書き残されている。
ミレトスのタレスは貧しかった。人々は、哲学など何の役にも立たないではないか、とタレスをからかった。タレスは星の観察から、次の年はオリーブが大豊作になると見てとった。そこで冬のうちに、わずかな手付金を払って、ミレトスとキオスのオリーブ搾り機をすべて借りる約束を取りつけた。誰も競う者がいなかったので、安く済んだ。収穫の時期になると、搾り機を求める人が一度に押し寄せた。タレスは好きな値で貸し、大金を得た。哲学者もその気になれば豊かになれる、と示したのだという。
アリストテレス自身は、この話の本当の中身は豊作の予言ではなく、搾り機を独り占めしたことにある、と付け加えている。タレスが実際にこうしたかどうかは分からない。アリストテレスはタレスより 200 年以上あとの人で、「人々の話では」として伝えている。
手付金を払って、あとで決まった条件で使える権利を手に入れる。使うかどうかは、そのときの様子を見て決めればよい。豊作でなければ、失うのは手付金だけである。いまの言葉で言えば、これはオプションの買いにあたる。この話は、オプションの最も古い例として金融の教科書でよく引かれる。
権利に、いくら払うのが正しいのか。2000 年以上、この問いには決まった答えが無かった。答えの形が見つかったのは 1973 年である。
起源
日本では 1730 年、大坂の堂島米会所で、米の先物の取引が幕府に公認された。将来の決まった日に、決まった値段で米を売り買いする約束を、帳簿の上だけで取引する仕組みで、組織的な先物の市場として世界でも早い例とされる。
値動きを確率で表す試みは、1900 年にパリでルイ・バシュリエが提出した博士論文「投機の理論」に始まる。バシュリエは、パリの取引所の国債の値段が、でたらめな小さな動きの積み重ねで動くと考え、のちにブラウン運動と呼ばれる確率の過程を、アインシュタインの 1905 年の論文より前に数式にした。指導したのはアンリ・ポアンカレである。論文はその後半世紀ほど忘れられた。経済学者ポール・サミュエルソンは、1950 年代に統計学者レナード・サヴェッジから、図書館で見つけたバシュリエの本を知らせる葉書を受け取ったと回想している。
1960 年代の終わりから、アメリカのフィッシャー・ブラックとマイロン・ショールズは、オプションの値段を、株とオプションを組み合わせた「危険の無い組」から決める方法にたどり着いた。ロバート・マートンは、日本の数学者伊藤清が 1940 年代に作った確率解析を使って、同じ結果を厳密に導いた。ブラックとショールズの論文は、はじめ 2 つの学術誌に断られ、シカゴ大学の経済学者の後押しもあって 1973 年に『政治経済学雑誌』に載った。同じ年の 4 月、シカゴ・オプション取引所が開業し、上場されたオプションの取引が始まった。式は、たちまち取引の現場で使われるようになった。
1997 年、ショールズとマートンはノーベル経済学賞を受けた。ブラックは 1995 年に亡くなっていた。翌 1998 年、2 人が役員に名を連ねていたヘッジファンド、ロングターム・キャピタル・マネジメントは、ロシアの債務不履行をきっかけにした市場の混乱で、数か月のうちに 40 億ドルを超える損失を出した。ニューヨーク連邦準備銀行の呼びかけで、14 の金融機関が約 36 億ドルを出し合って救済した。破綻の主な原因は、借入金で何十倍にも膨らませた取引と、混乱の中で値動きの関係が一斉に崩れたことにあり、式そのものの誤りではない、とする分析が多い。それでも、式の前提が崩れる場面の怖さを示した出来事として記憶されている。
証明
株価 の値動きと、満期 に株を値段 で買える権利(コール・オプション)の価値 を考える。 は危険の無い金利である。
-
株価は、平均の伸び と、でたらめな揺れ で動くとする( はブラウン運動、 は値動きの激しさ)。
-
伊藤の公式によると、 の変化には、揺れの 2 乗から来る項が加わる( のため)。
-
オプションを 1 つ持ち、株を 株だけ売っておく組 をつくる。 の項が打ち消し合い、短い時間では値動きの危険が消える。
-
危険の無い組は、銀行に預けたのと同じ金利 でしか増えないはずである。それより多く増えるなら、元手なしに確実に儲ける取引ができてしまう。
-
手順 3 と 4 を等しいとおくと、ブラック・ショールズ方程式になる。株の平均の伸び は式から消えている。
-
満期の価値は、株価が より高ければその差、低ければ権利を使わないので 0 である。
-
変数を置き換えると、この方程式は熱が棒を伝わる熱伝導方程式に変わり、解ける。満期までの残りを 、 を標準正規分布の累積分布関数として
手順 5 で が消えたことが、この式の核心である。株が上がると思う人も下がると思う人も、 と が同じなら、同じ値段に合意できる。値段は、株の伸びを とした世界で受け取りの期待値を求め、 で割り引いたものに等しい(リスク中立の評価)。
前提も多い。値動きの激しさ は一定、値段は飛ばずに連続して動く、取引の手数料は無く、いつでも好きなだけ売り買いできる。実際の市場では、どれも崩れることがある。1987 年 10 月の株の暴落のあとは、満期と行使の値段ごとに市場の値段から逆算した が違う「スマイル」と呼ばれる形が目立つようになった。式は値段を考える共通の言葉として使われ続けているが、将来の値動きを当てる道具ではない。
応用
数の例。 株価 、行使の値段 、金利 、値動きの激しさ 、満期まで 1 年とする。、、、 で、 になる。 を 40% にすると約 18.0 に上がる。値動きが激しいほど、権利の価値は高い。買った側の損は払った値段までなのに、大きく上がったときの受け取りは大きくなるからである。反対に、権利を売った側は、株価が大きく上がると損に上限が無い。同じ条件で売る権利(プット)は、プット・コール・パリティ から約 5.57 になる。
値段から激しさを読む。 市場で付いているオプションの値段を式に入れ、逆に を求めたものを、インプライド・ボラティリティという。市場が見込んでいる値動きの激しさを表す数で、取引の現場では、オプションの値段をこの数で言い表すことも多い。
会社の中の権利。 社員に与えるストックオプションの費用を見積もるときや、会社の株を「会社の資産に対するオプション」とみなして倒産の確率を見積もるとき(マートンの 1974 年のモデル)にも、同じ考え方が使われる。
図示
シミュレーション
左では、株価が の伸びと の揺れで動く道を何本も引いている。満期に を超えた道の受け取りを平均し、割り引くと、右の曲線の式の値にほぼ一致する。道が満期へすっと伸びるにつれ、右の曲線は折れ線へ沈み、満期で止まる。 を上げると道は大きく広がり、権利の値段も上がる。
広がる学問
- 経済学 金融工学の出発点で、オプション・先物などデリバティブの値段の付け方、銀行の危険の管理、会社の財務の分析に使われる。1998 年の危機は、式の前提が崩れる場面と、借入れで膨らんだ取引の危うさを考える題材にもなった。
- 数学 伊藤清の確率解析の最も有名な応用である。確率微分方程式と偏微分方程式が、期待値の計算を通してつながる(ファインマン・カッツの公式)ことを示す代表例になっている。
- 物理学 株価のでたらめな動きはブラウン運動の数学で表され、方程式は変数を置き換えると熱伝導方程式になる。粒子の拡散と値段の広がりが同じ式で書ける。
参考文献
- Fischer Black, Myron Scholes, "The Pricing of Options and Corporate Liabilities", Journal of Political Economy 81 (1973), 637-654.
- Robert C. Merton, "Theory of Rational Option Pricing", The Bell Journal of Economics and Management Science 4 (1973), 141-183.
- Louis Bachelier, "Théorie de la spéculation", Annales scientifiques de l'École Normale Supérieure 17 (1900), 21-86.
- アリストテレス『政治学』第 1 巻 第 11 章(1259a)(山本光雄 訳、岩波文庫)
- Fischer Black, "How We Came Up with the Option Formula", The Journal of Portfolio Management 15 (1989), 4-8.
- Roger Lowenstein, When Genius Failed: The Rise and Fall of Long-Term Capital Management (Random House, 2000).
- 伊藤清『確率論』岩波書店、1991。