遅い電卓
1975 年の夏、ロスアラモス国立研究所の物理学者ミッチェル・ファイゲンバウムは、手のひらほどのプログラム電卓 HP-65 で、この 1 行の式を何度も計算していた。
つまみ を少しずつ上げていくと、 の行き先は 1 つの値から 2 つの値の往復に、2 つから 4 つに、4 つから 8 つにと、分かれていく。ファイゲンバウムが調べたのは、分かれ目になる の値だった。
電卓は遅かった。次の分かれ目を探す計算には時間がかかる。待つあいだに、彼は次の分かれ目がどこに来るかを先に当てようとした。そして、分かれ目の間隔が毎回ほぼ同じ割合で縮んでいることに気づいた。縮む割合は約 4.669 だった。電卓の精度では、小数点以下 3 桁までしか求められなかった。
10 月、ファイゲンバウムは別の式 でも同じ計算をした。出てきた割合は、また 4.669 だった。式の形が違っても、山が 1 つで頂上が放物線に似た曲線をくり返し使う限り、同じ数が現れる。のちに「ファイゲンバウム定数」と呼ばれる数で、 である。
この発見を書いた最初の論文は 1976 年 4 月にできたが、半年の審査ののち雑誌に断られた。2 本目の論文も、最初の投稿では断られている。論文が印刷されたのは 1978 年である。1986 年、ファイゲンバウムは、この予言を液体の実験で確かめたアルベール・リブシャベールとともに、ウルフ賞(物理学)を受けた。
同じ 1976 年、プリンストン大学の生態学者ロバート・メイは、この式を総説「とても複雑な振る舞いをする単純な数理モデル」にまとめて『ネイチャー』に載せた。メイはその結びで、研究だけでなく政治や経済の日々の場面でも、単純な非線形の仕組みが単純に振る舞うとは限らないと知る人が増えれば、皆の暮らしは良くなるだろう、と書いた。
起源
元になったのは、ベルギーの数学者ピエール=フランソワ・フェルフルストが 1838 年に発表した人口の式である。人口は増えるほど増え方が鈍り、ある上限で止まる。フェルフルストはこの増え方を、時間が連続に流れる微分方程式で書いた(ロジスティック方程式)。連続の式の解は、なめらかな S 字を描いて上限に近づくだけで、驚くことは起こらない。
虫や魚のように、年に 1 回まとめて卵を産む生き物では、時間を 1 年ずつ区切って考えるほうが自然である。今年の数 (上限を 1 とした割合)から来年の数 を決める。数が少ないうちは 倍に増え、上限に近いほど の分だけ増え方が抑えられる。こうして時間を区切っただけで、連続の式には無かった振る舞いが一気に現れる。
この式の不思議さには、早くから気づいた人がいた。数学者スタニスワフ・ウラムとジョン・フォン・ノイマンは 1947 年、 のときの数列が乱数の代わりに使えることを、アメリカ数学会の会報に短く報告している。
1964 年、ウクライナの数学者オレクサンドル・シャルコフスキーは、周期の現れ方の順序についての定理を発表した。この結果は長いあいだ旧ソ連の外では知られなかった。1975 年、メリーランド大学の李天岩とジェームズ・ヨークは、論文「周期 3 はカオスを意味する」で、周期 3 の点があればあらゆる周期の点があり、予測のつかない軌道も無数にあることを示した。「カオス」という言葉が数学の意味で使われ始めたのは、この論文からとされる。
メイの 1976 年の総説は、これらの結果を生物学の言葉で結びつけた。ファイゲンバウムの定数は、その振る舞いが式の細かい形によらないことを示した。1 行の式が、カオスという新しい分野の入口になった。
証明
、、 とする。 が変わらない点(不動点)と、その安定さを調べる。
-
不動点は の解である。 を解くと
-
不動点の近くで と置き、1 次の項だけを残すと、ずれは毎回 倍になる。
-
では である。ずれが縮むのは のときだから、 の範囲で、 は に落ち着く。
-
で になる。ずれは縮まずに符号だけを変え、2 つの値を交互に取る動きが生まれる。2 回後に戻る点は の解から不動点を除いたもので、
-
2 つの解 は 、 を満たす。往復が安定かどうかは、2 回分の倍率 で決まる。展開して代入すると
-
この値の大きさが 1 より小さいのは のときである。その先では往復も不安定になり、4 つの値の周期が生まれる。分かれ目の を 、、、… と並べると、間隔の比は一定の値に近づく。
-
分かれ目は に集まり、その先にカオスの領域が広がる。いちばん端の では式が解ける。 と置くと、倍角の公式から
-
つまり は毎回 2 倍になる( を 1 で割った余り)。 を 2 進数で書けば、1 回ごとに桁が 1 つ左へずれるだけである。初めの値のずれは毎回約 2 倍に広がり、 の差は 20 回ほどで、まったく別の値になる。
応用
落ち着く・往復する・乱れる。 、 から計算すると、0.448、0.692、0.596、0.674、0.615、… と行き過ぎと戻りをくり返しながら、 に近づく。 にすると、数回で 0.513 と 0.799 の往復に入り、二度と 1 つの値には落ち着かない。手順 4 の式の解 とぴったり合う。
ほんの少しの差。 で、 と から同時に計算を始める。初めの差は 1000 万分の 1 だが、21 回目には一方が 0.219、もう一方が 0.431 になる。式には偶然が 1 つも入っていないのに、初めの値を有限の桁でしか知らない限り、先の値は当てられない。天気予報が 2 週間より先を当てにくい理由も、同じ種類の性質にある。
虫の数。 1976 年、ハッセル、ロートン、メイの 3 人は、この式を少し一般にした式を、昆虫の個体数の長い記録に当てはめた。野外の個体群のほとんどは、1 つの値に落ち着く側に入った。激しく揺れる側に入ったのは、実験室で飼った個体群などわずかだった。式の上ではカオスが起こりうることと、実際の生き物がカオスで動いているかどうかは、別の問題である。記録から見分ける研究は、いまも続いている。
乱数の代わり。 の数列はかたよって分布する( と の近くに多い)が、変数を に直せば一様に近くなる。この性質を使って、ウラムとフォン・ノイマンは計算機で乱数を作る方法を考えた。いまは暗号の研究で、カオスの写像を使う方法が調べられている。
図示
シミュレーション
左の図では、点が放物線と対角線のあいだを行き来して、 を順に作る。右上の分岐図を横にドラッグするか、つまみを動かすと が変わる。 を 3 より大きくすると往復が始まり、3.57 を越えると決まった形が無くなる。「2 つの初期値」を入れると、0.001 だけ違う出発点の数列が右下に重なって描かれ、カオスの領域ではすぐに離れていく。
広がる学問
- 生物学 世代が重ならない虫や魚の個体数の変化を考える、最も簡単な模型である。メイの総説は、生態学者が個体数の激しい上下を「偶然や外の乱れのせい」とだけ考えず、仕組みそのものから生じうると考えるきっかけになった。
- 物理学 1980 年代の初め、リブシャベールらは液体ヘリウムや水銀の対流の実験で、周期が 2 倍・4 倍と分かれていく様子を測り、分かれ目の間隔の比がファイゲンバウムの定数に近いことを確かめた。水の流れ、電気回路、レーザーでも同じ分かれ方が見つかっている。
- 情報科学 決まった規則から乱れた数列を作る方法として、乱数の生成や暗号の研究に使われる。計算機の数は桁が有限なので、長くくり返すと必ず周期に入ってしまうことも、同時に知られている。
- 数学 力学系の理論の中心的な例である。 を複素数に広げると、同じ種類の式からマンデルブロ集合が現れる。ファイゲンバウムの定数がなぜ普遍的なのかは、くりこみという考え方で説明され、のちに証明も与えられた。
参考文献
- R. M. May, "Simple mathematical models with very complicated dynamics", Nature 261 (1976), 459-467.
- M. J. Feigenbaum, "Quantitative universality for a class of nonlinear transformations", Journal of Statistical Physics 19 (1978), 25-52.
- T.-Y. Li, J. A. Yorke, "Period Three Implies Chaos", The American Mathematical Monthly 82 (1975), 985-992.
- S. M. Ulam, J. von Neumann, "On combination of stochastic and deterministic processes", Bulletin of the American Mathematical Society 53 (1947), 1120.
- P.-F. Verhulst, "Notice sur la loi que la population suit dans son accroissement", Correspondance mathématique et physique 10 (1838), 113-121.
- M. P. Hassell, J. H. Lawton, R. M. May, "Patterns of dynamical behaviour in single-species populations", Journal of Animal Ecology 45 (1976), 471-486.
- "Mitchell Jay Feigenbaum", MacTutor History of Mathematics Archive, University of St Andrews.