蝶の問いに答えなかった講演
「ブラジルの1匹の蝶のはばたきが、テキサスの竜巻を引き起こす」。広く知られたこの言い方を、エドワード・ローレンツは言い切っていない。元になった講演の題は問いの形で、しかも題を付けたのは本人ではなかった。
1972年12月29日、マサチューセッツ工科大学(MIT)の気象学者ローレンツは、アメリカ科学振興協会の大会で話した。題は「予測可能性:ブラジルの1匹の蝶のはばたきはテキサスの竜巻を引き起こすか」である。ローレンツは冒頭で、この問いが軽はずみに聞こえないよう、2つの命題を置いた。1回のはばたきで竜巻が起こせるなら、その前後のはばたきも、何百万匹もの蝶も、人間の活動も起こせるはずだ。そして竜巻を起こす助けになるなら、同じように防ぐ助けにもなる。
つまり、蝶は竜巻の数を増やしも減らしもしない。変えるとしても、起こる順番までだという。

本当に知りたいのは別のことだ、とローレンツは続けた。蝶1匹ぶんしか違わない2つの天気は、時間がたつと、竜巻の有無ほど違ってくるのか。大気が不安定だという証拠をいくつも挙げたあとで、結論はこうなった。「もとの問いには、あと何年か答えないままにしておくほかない」。
題の出どころは、ロバート・ヒルボーンが2004年の論文でたどっている。ローレンツの手紙によると、その秋は国外にいて、会の世話役だった気象学者フィリップ・メリリーズが代わりに題を考えた。メリリーズはヒルボーンあての手紙で、ローレンツのカモメの比喩は知っていたが、蝶のほうが人を引きつけると思ったと書いた。ButterflyとBrazil、TornadoとTexasで頭の音もそろえたという。「セネガルのカモメでもよかったかもしれない」。近くの部屋にいたダグラス・リリーは、蝶を勧めたのは自分だと記憶していた。
カモメは本当にいた。ローレンツは1963年の別の論文で、理論が正しければカモメの1回のはばたきで天気の行方は永久に変わる、と言った気象学者がいたと紹介している。
軌跡の絵が蝶に見えることも、名前の由来ではない。今よく見る形はとで描いた図だが、1963年の論文の図はと、との面で、蝶には似ていない。講演に図はなく、ヒルボーンによればとの図が描かれたのはおそらく1970年代の半ばより後である。
では、ローレンツは何を見て、この問いにたどり着いたのだろうか。
コーヒーのあいだに別の天気へ
始まりは机ほどの大きさの計算機だった。ローレンツはロイヤル・マクビー社のLGP-30を手に入れ、偏西風の速さのような天気の大まかな特徴を12個の変数で表す模型を解いていた。6時間ぶん進める1歩に約10秒かかり、1日ぶんごとに12個の数を印字する。

ある日、途中の結果を詳しく見直そうとして、前に印字された12個の数を打ち込み、もう一度走らせてコーヒーを飲みに出た。1時間ほどして戻ると、計算機は約2か月ぶんの天気を作っていて、最初の結果とまるで違う。1991年の京都賞の講演でローレンツは、はじめ故障を疑ったと語っている。
比べ直すと、初めは同じ値が並び、やがて最後の桁が1だけ違い、差は模型の中の約4日ごとに2倍になった。約60日後には、見分けがつかないほど別の天気だった。
原因は打ち込んだ数にあった。計算機は小数第6位ほどまで持って計算する。しかし12個を1行に収めるため、印字は小数第3位までにしていた。ローレンツが入れたのは丸めた近似値だった。ジェイムズ・グリックの『カオス』はこれを0.506127と0.506という数で語るが、本人の講演録に具体的な数は出てこない。

「ここで私はかなり興奮した」とローレンツは言う。実際の大気もこの模型のようにふるまうなら、長期の天気予報はできない。大気を小数第3位まで正確に測れるはずがないからだ。
グリックの本をはじめ、この話を1961年とする説明は多い。ところが『クォンタ・マガジン』の調べでは、ローレンツは1960年11月、東京で開かれた数値予報の会議の質疑で、初めの値を少し変えて試したことがあると答え、思いがけない結果を話し始めている。ただ、当時それを重く受け止めた人はいなかったらしい。
計算機を動かしたのは、ローレンツ1人ではない。1959年の夏からプログラムを書いたマーガレット・ハミルトンは、のちにアポロ計画の飛行ソフトウェアを率いる人である。1961年の夏にはエレン・フェッターが引き継いだ。
このページの頭にある3本の式は、この12変数の模型とは別物である。どこから来たのか。
レイリー卿は1916年、下から熱せられた水や空気のような流体の層で対流が起きる条件を調べた。バリー・サルツマンは1962年、その流れを波の足し算に展開して計算機で解き、ある条件では3つを除く変数がすべて0に近づき、残る3つが不規則に揺れ続けるのを見た。ローレンツはこれをサルツマンから教えられ、それならと最初から3つだけで書いた。元の式はナビエ・ストークス方程式の仲間で、場所ごとの速さと温度を持つが、それが3つの数に縮んだ。
1歩に約1秒のLGP-30で6000歩を解くと、やはり軌跡は繰り返さなかった。論文の最後には、数値計算を受け持ち図を用意したフェッターへの謝辞がある。
論文「決定論的な非周期流」は『大気科学雑誌』の1963年3月号に載った。現在の状態を正確に知らない限り、十分先の未来の予測はどんな方法でもできない、とローレンツは書いた。ただ、「十分先」がどれほど先なのかは分からず、数日かもしれないし数百年かもしれないと認めている。

軌跡が吸い寄せられていく先を、今はアトラクターと呼ぶ。相対性理論で知られるローレンツ変換のローレンツ(Lorentz)とは別人である。
3つの数を1歩ずつ進める
この証明の道すじ。 式を言葉に直す。数を入れて1歩ずつ足し(手順1〜5)、差の開き方を数で見る。止まる点を解き(手順6〜11)、原点と渦の境目のを求め(手順12〜24)、体積が縮むことと証明の難しさにふれる。
式の文字を読む
文字の上の点はドットと読み、は「の変わる速さ」を表す。、、はどれも時間とともに変わる数で、3つそろうと、ある瞬間の対流のようすが決まる。3つを座標とみれば対流は空間の1点になり、その点が動いて描く線を軌跡という。
は対流の強さで、符号が変わると回る向きが逆になる。は上がる流れと下がる流れの温度差で、と同じ符号なら温かい流体が上がり、冷たい流体が下がる。は上下の温度分布が直線からどれだけずれたかを表し、正なら上下の面の近くで温度の変わり方が急になる。
(シグマ)はプラントル数で、流体の粘りと熱の伝わりやすさの比である。(ロー)は温度差の強さで、対流が始まる境目の何倍かを表す。(ベータ)は、回る流れ1つぶん(対流セル)の横と高さの比で決まる。ローレンツはサルツマンにならって、と置き、は後で求める境目24.74を少し超えた28を選んだ。論文ではを、をと書いている。
速さが分かれば、次の値が分かる。増える分は速さ×時間の刻みなので、今の値に足せばよい。
3本の式を読むと、押し合いが見えてくる。1行目はがより大きいとが増えるので、はを追いかける。2行目のはがを押す項で、が大きいほど押す力は弱まる。3行目ではとの積がを増やし、が減らす。
とが強め合い、強まるとがふくらんでブレーキをかける。やのように文字どうしの積を含むので、この式を非線形という。
図で納得する
この3本には、を時間の式で書く公式が知られていない。だから、速さ×刻みを1歩ずつ足す(オイラー法)。ローレンツと同じく、初めの値(初期値)を、刻みを0.01とする。
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今の値を3本の式に入れて、速さを出す
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速さ×0.01を足す。これが1歩目の値になる
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1歩目の値で、速さを出し直す
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また足す。これが2歩目の値になる
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速さ8.191、4.2837、0.18789で同じことをする。これが3歩目の値になる
ボタンを3回押すと、手順5の値が読み出しに出る。100歩ずつ進めると、が一気に伸びてから片側の渦へ回り込む。
実線はこのオイラー法で、破線はローレンツの方法だ。ローレンツは1歩を2回見積もって平均した。論文の表の35歩目は、、である。
表は値を10倍して小数を切り捨てた数で、破線の計算の15.061、26.901、20.196なら15.0、26.9、20.1になる。は最後の桁が1違うが、表の99個の値を照らしても、こうした1の違いは12個で、計算機の桁数の差とみられる。
オイラー法の35歩目は、で、遅れが目に見える。そのためこの先の数は、4回見積もるルンゲ・クッタ法を刻み0.005で解いた値である。
コーヒーの実験と同じことを、この3本で試せる。から時刻25まで進むとになる。これを小数第3位に丸めて、からもう一度解く。3つの数のずれを空間の距離で測ると、差はわずか0.00067だ。
それでも時間が5.8進むと差は1を超え、7.5で10を超える。ただ、式にも計算にも偶然は入っていない。同じ数から解けば、何度でも同じ答えになる。この性質を決定論的という。
では、さいころと何が違うのか。
さいころは毎回新しく決まる。式のほうは初めの値で全部決まっている。それなのに先が読めないのは、初めの値を有限の桁でしか知りようがないからで、これをカオスと呼ぶ。
開き方には目安がある。長い軌跡で平均すると、差は時間が1進むごとに約2.46倍になる。は約2.718の定数で、2.46はの値にあたるので、時間のあいだの倍率はと書ける。
この0.9をリアプノフ指数といい、差が開く速さを表す。ロジスティック写像のでは、1回の繰り返しあたりで同じ量が約0.69になる。
縦の目盛りは1つ上がるごとに1万倍で、倍々に増えるものはこの目盛りだと直線になる。太い線が実際の差で、破線がの直線である。太い線が波打つのは開き方が場所によって違うからで、一時的に縮む所さえある。
平均すると、ずれを1桁小さくしても、差が1に届く時刻は約2.6しか遅れない。
式で確かめる
止まる点から解く。3つの速さがすべて0なら、その値のまま動かない。
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1行目を0と置く。は0でないのでである
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3行目を0と置き、を入れる
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2行目を0と置き、を入れてでくくる
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なら、手順6と7からである。対流がない状態を表す
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が0でなければで、手順7に入れる
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を入れる。である
この2点を、と呼ぶ。論文にはと書かれていて、2点のまわりの渦が蝶の2枚の羽にあたる。では根号の中が0以下になり、止まる点は原点だけになる。
ただし止まる点があっても、近くから離れていくなら、そこには留まらない。
原点の近くではがほぼ0なので、、と読める。がの倍のまま、どちらも速さが今の値の(ラムダ)倍になる形を探す。
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、を1本目に入れて、で割る
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はの倍なのでである。2本目に入れて、で割る
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手順12を手順13に入れて、片側にまとめる
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、なら因数分解できて、、になる
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ならで、解の公式の正のほうの解はである。手順12に入れる
が正なら外へ伸び、負なら原点へ縮む。ではである。境目のは、レイリーが求めた対流の始まる条件と一致する。
の近くはどうか。として、、、と置く。、、はからのずれである。
3本の式に入れて整理し、ずれどうしの積(と)はごく小さいので捨てる。たとえば2本目はを開いて、を捨てたものである。
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3つとも速さが今の値の倍になるとし、1本目をについて解く
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3本目をについて解く
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2本目のに手順17と18を入れる。で割り、を掛けて、を左へまとめる
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分母を払って開き、を使う。論文の式(33)になる
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のとき、左辺は因数分解できる。の実数の部分が正なら渦は広がり、負なら縮む。2乗して負になるは実数の部分が0なので、がちょうど境目になる
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3つの数を入れて、を書く
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両辺にを掛ける
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について解く
計算で渦の幅を測ると、境目がそのまま見える。止まる点から0.3ずらして始めると、では幅が0へ縮み、25では広がり、24.74ではほぼ変わらない。
破線は止まる点の高さである。では原点へ落ち着く。ではとが安定で、近くから始めるとそこへ戻ってくる。から解くと、までは片方の羽に落ち着く。
ところがと24.5では、のすぐ近くから始めれば落ち着くのに、からだと時刻300でも羽を渡り続ける。行き先は始まりしだいである。しかも計算で見えるのは有限の時刻までで、では、羽を渡る動きが時刻数千から数万まで続いたあとで落ち着いた。
24.74を超えると、どちらの渦も外へ広がる。では1周(時間0.62)で約1.06倍とゆっくり広がり、やがて反対の羽へはじき出される。それでも軌跡は遠くへ飛んでいかない。論文は、ある範囲の外へ出ないことも示している。
軌跡はその範囲の中のどこに集まるのだろうか。入り口は3本の式の係数にある。の式でにかかる係数は、でには、でにはである。
小さな箱を思い浮かべると、この3つが、、の向きの辺の縮み方を決める。ほかの項は箱を傾けるだけで、体積を変えない。体積は3辺の掛け算なので、縮み方のほうは足し算になる。
どの場所でも同じこの数が、体積の縮み方を決める。時間が1進むと体積は倍、約100万分の1になる。論文は渦の1周を時間0.7と見て、1周で0.00007倍と計算している。
体積が縮むのに軌跡は広がる。つまり、ある向きに伸ばされ、別の向きに押しつぶされて、薄い面になって折りたたまれている。
ローレンツは「面の無限の重なり」と書いた。今でいうフラクタルで、マンデルブロ集合と同じく細かく見ても構造が尽きない。リアプノフ指数から見積もる次元は約2.06で、面の2次元よりわずかに厚い。
もっとも、ここまでの多くは数値計算の観察である。ローレンツ自身も、数学的に証明されたとは見なせないと書いた。カオスは計算機の丸め誤差まで拡大するので、軌跡を追うだけでは証明にならない。
1998年、スティーヴン・スメールは21世紀に向けた問題の第14問に、この式の動きが数学者の作った幾何学的な模型と同じなのかを挙げた。薄い面が重なったこの形(ストレンジ・アトラクター)が本当にあるのかを問う問題である。
解いたのはコーネル大学のウォーリック・タッカーで、2002年の論文である。丸め誤差ごと数を区間で包む計算(区間演算)に、式を簡単な形に直す理論を組み合わせて示した答えは「同じ」だった。論文は65ページあり、手でたどれる証明ではない。丸めで始まった話は、丸めを封じ込めた計算で決着した。
差が1に届くまでを手で出す
この計算の道すじ。 時間1で2.46倍という数を、2倍にかかる時間に直す(手順1〜2)。初めの差から1まで倍々で数える(手順3〜6)。最後に12変数の模型の「4日ごとに2倍」で同じ計算をする(手順7〜8)。
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時間1での倍率を電卓で出す
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2倍にかかる時間を探す。時間0.77で2倍になる
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初めの差を100万分の1とする。2倍を20回で約100万倍になる
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かかる時間は回数×0.77である
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初めの差を1000分の1にする。2倍を10回で約1000倍になる
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かかる時間は半分になる
観測を1000倍よくしても、先が読める時間は7.7しかのびない。軌跡の上の200か所で実際に解いて平均すると、100万分の1からは約14.4、1000分の1からは約6.7で、差はやはり約7.7だった。
ローレンツの12変数の模型でも数えられる。小数第3位に丸めると、差は最大で0.0005である。
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60日は、4日ごとの2倍が15回にあたる
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15回2倍すると約3万倍で、差は16ほどに届く
倍々が続いたとした見当で、実際の差は模型の振れ幅で頭打ちになる。それでも、丸めの差が2か月で全体に広がる勘定は合う。
予報の「十分先」は何日か
3本の式そのものは天気予報に使われない。切り詰めが激しく、強い対流では元の式の解に似るとは期待できない、とローレンツ自身が書いている。受け継がれたのは、少し違う初期値から解いて差を測るやり方のほうである。
1972年の講演は、当時の計算の結果を挙げている。ふつうの観測網でとらえられる大きな構造では、小さな誤差が約3日で2倍になる。雲の位置のような細かい構造の誤差は数時間以下で2倍になり、1日ほどで大きな構造へ移る。この移り方だけは確かさが一段落ちる、とローレンツは断っている。
大きな構造だけなら、観測の誤差を半分にするたびに予報は3日のびる。たとえば誤差を8分の1にすると、半分にする回数は3回だ。
ところが細かい構造の誤差を半分にしても、のびるのは数時間以下にとどまる。ローレンツは、2週間以上先を予報する望みは大きくしぼむと述べた。
気象庁は今、この開き方を前提にしている。わずかに違う初期値を多数用意し、平均とばらつきから確率で捉えるアンサンブル予報で、1週間先までの天気予報などを出す。3本の式で同じことをすると、始まりの場所で開き方はまるで違う。
本物の天気の予報は、どこまで届くのか。ペンシルベニア州立大学のフーチン・チャンやMITのケリー・エマニュエルらは2019年、最新の予報モデルに初期値をほぼ完全に与えて、実際の2つの事例を解いた。報告によると、日本を含む中緯度で日々の天気を当てられる上限は平均で約2週間である。大学の発表によると、当時の予報は9〜10日先までで、4〜5日のびる余地が残る。チャン自身、この答えは今後も磨かれると述べている。
蝶の話に戻る。ローレンツは1972年の講演で、当時の予報が外れる主な原因を細かい構造のせいにはしなかった。大きな構造の観測が足りないこと、物理の理解が足りないこと、計算に要る近似である。目指すのは正確な予報ではなく、「大気が許してくれる最良の予報」だという。
手で1歩進める
例題 1基本1歩を足す
、、、、刻み0.01で1歩進めよ。
解説を見る
速さは、、である。
例題 2基本止まる点
、、のとき、止まる点を3つ求めよ。
解説を見る
原点のほかに、、の2点がある。を入れると、3つの速さはどれも0になる。
例題 3入試山形の写像
なら、ならとする。とから5回進め、2つの差を調べよ。
解説を見る
0.3は0.6、0.8、0.4、0.8、0.4と進む。0.301は0.602、0.796、0.408、0.816、0.368と進む。
差は0.001から0.002、0.004、0.008、0.016、0.032と毎回2倍になる。傾きの大きさがどちらの側でも2だからである。
例題 4大学別の組の境目
、のとき、(1)の渦が広がり始めるを求めよ。(2)時間0.5で体積は何倍になるか。
解説を見る
(1)、、なので、は次の式になる。
かっこを外してとなり、からである。
(2)係数の和はなので、次の値になる。
山の高さが次の山を決める
の山だけを拾って並べると、何が見えるだろうか。ローレンツは論文の図4で、番目の山の高さを横軸に、次の山の高さを縦軸に置いた。同じ図を今の計算で描き直すと、次のようになる。
点は散らばらず、1本の線に乗る。今の山が分かれば次の山は決まり、線の傾きの大きさはどこでも1を超えて見えるので、小さな差は1周ごとに広がる。今の値から次の値を決める規則を写像という。ローレンツはこの線を例題3の写像に見立て、ほとんどの軌道が周期を持たないと論じた。
ロジスティック写像のでが毎回2倍になるのと同じく、差が1回ごとに倍になる形である。1本の写像からカオスを読む話は、1963年の論文にもう書かれていた。
2つの点を並べて走らせる
2つの点は同じ式で動き、初めのだけがわずかに違う。実線(塗りつぶした丸)と破線(中が空いた丸)は最初ぴったり重なり、差が1を超えると下の帯に縦線が立つ。ずれの桁を増やしても、別れる時刻は少ししか遅れない。を15まで下げると、2つの点は同じ渦の中心へ落ち着き、差そのものが消えていく。
3つの数が届く学問
- 地球科学 予報がどこまで届くかを調べるとき、少し違う初期値から解いた2つの結果の差を測る。1963年の論文が提案したこの比べ方は、今の予報モデルの試験にも受け継がれている。
- 数学 決まった式からいつまでも繰り返さない軌道が生まれる仕組みを調べるとき、力学系の代表的な例になる。スメールが問題に挙げたように、数学者が厳密に示す目標にもなってきた。
- 物理学 流体が温度差で動き出す条件や、レーザーの発振の乱れを調べるとき、同じ形の式を使う。ヘルマン・ハーケンは1975年、レーザーの式がこの3本と同じ形になると指摘した。
- 情報科学 時系列のデータから式を見つける手法を試すとき、答えの分かった問題として使う。スティーブン・ブラントンらは2015年に公開した論文で、手法を試す例にこの方程式を使った。
蝶を使う研究と、2週間の壁
- 2022年 三好建正とQiwen Sun(理化学研究所): 小さな差が育つことを逆手に取り、3本の式に小さな操作を加えて、軌跡を選んだ羽に留める計算実験を報告した。の符号を変えないために、観測誤差の3%未満の操作で足りる場合がある。現実の予報モデルで防災に使えるかは、これから調べるという(Nonlinear Processes in Geophysics 29, 133)。
- 2023年 トビアス・ゼルツとジョージ・クレイグ(ドイツ航空宇宙センター、ミュンヘン大学): AIの天気予報モデルに小さな初期のずれを与えると、物理の式で解くモデルにある速い誤差の成長が再現されなかった。差の式の0.9にあたる数が小さすぎて、予報が無限に届くかのように見えてしまう。ずれが大きいと両者はほぼ一致する(Geophysical Research Letters(2023))。
- 2025年P. Trent VonichとGregory J. Hakim(ワシントン大学): 機械学習のモデルGraphCastで、2020年の予報の初期値を最適化した。10日先の誤差は平均86%減り、当たりは30日を超えて続いたという。差の式の「初めの差」に手を入れる試みにあたる。ただし同じ初期値を別のモデルに入れると誤差の減りは21%にとどまり、実時間で見つけられるかは未解決である(arXiv:2504.20238)。
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参考文献
- E. N. Lorenz, "Deterministic Nonperiodic Flow", Journal of the Atmospheric Sciences 20 (1963), 130-141.
- E. N. Lorenz, "Predictability: Does the Flap of a Butterfly's Wings in Brazil Set Off a Tornado in Texas?", アメリカ科学振興協会 第139回大会の講演(1972年12月29日)。公開された写しで読める。
- E. N. ローレンツ「科学者という職業」京都賞記念講演録(1991)。公益財団法人稲盛財団「エドワード・ノートン・ローレンツ」。講演録の和文に「6日後」とある所は、英文ではsixty daysで、話の流れとも合う英文に従った。
- R. C. Hilborn, "Sea gulls, butterflies, and grasshoppers: A brief history of the butterfly effect in nonlinear dynamics", American Journal of Physics 72 (2004), 425-427. カモメの比喩はE. N. Lorenz, "The predictability of hydrodynamic flow", Transactions of the New York Academy of Sciences 25 (1963), 409-432.
- J. Sokol, "The Hidden Heroines of Chaos", Quanta Magazine (2019). J. Gleick, Chaos: Making a New Science (1987).
- B. Saltzman, "Finite amplitude free convection as an initial value problem-I", Journal of the Atmospheric Sciences 19 (1962), 329-341. Lord Rayleigh, "On convective currents in a horizontal layer of fluid when the higher temperature is on the under side", Philosophical Magazine 32 (1916), 529-546.
- W. Tucker, "A Rigorous ODE Solver and Smale's 14th Problem", Foundations of Computational Mathematics 2 (2002), 53-117. "First R. E. Moore Prize Awarded at Validated Computing 2002".
- 気象庁「アンサンブル予報」。
- F. Zhangほか, "What Is the Predictability Limit of Midlatitude Weather?", Journal of the Atmospheric Sciences 76 (2019), 1077-1091. ペンシルベニア州立大学「Predictability limit: Scientists find bounds of weather forecasting」(2019)。
- H. Haken, "Analogy between higher instabilities in fluids and lasers", Physics Letters A 53 (1975), 77-78. S. L. Brunton, J. L. Proctor, J. N. Kutz, "Discovering governing equations from data", arXiv:1509.03580(2015)。
- "Edward Lorenz, father of chaos theory and butterfly effect, dies at 90", MIT News (2008).