最初の絵
1978 年ごろ、2 人の若い数学者ロバート・ブルックスとピーター・マテルスキが、複素数の行列が作る群の性質を調べる論文を書いた。その中に、式 と、計算機の印字で描いた粗い図が 1 枚入っていた。粗いが、いまマンデルブロ集合と呼ばれる形の、まぎれもない輪郭だった。論文は 1979 年の初めに刷り物で配られ、1978 年にニューヨーク州ストーニーブルックで開かれた研究集会の論文集に収められて、1981 年に本として出た。
同じころ、アメリカの IBM トーマス・J・ワトソン研究所では、ブノワ・マンデルブロが計算機でジュリア集合の絵を描いていた。マンデルブロは、1979 年の終わりには集合の形が分かる絵を作り始めていたと語っている。1980 年 12 月、ニューヨーク科学アカデミーの紀要に、この集合を扱った論文を出した。
コーネル大学のジョン・ハバードも、1976 年から計算機で反復の絵を描いていた。ハバードによれば、1979 年の初めにワトソン研究所を訪れ、反復の結果を計算機で描く方法をマンデルブロに説明したという。ハバードは 1980 年の論文に強く怒り、数学の倫理に反すると、のちに語っている。
1980 年代の初め、ハバードとフランスのアドリアン・ドゥアディは、この集合がひと続きにつながっていることを証明し、集合にマンデルブロの名前を付けた。ドゥアディは 1986 年に、「マンデルブロは、計算機を使って最初にこの集合の絵を作り、その様子を描き始めた人である」と書いている。
1989 年、数学者スティーヴン・クランツは『マセマティカル・インテリジェンサー』で、この集合はマンデルブロが発明したものではないと書いた。マンデルブロは同じ誌上で反論し、ブルックスとマテルスキは図に何の考えも向けなかった、と書いた。ブルックスは 1990 年、『サイエンティフィック・アメリカン』の記者ジョン・ホーガンの取材に「私たちが何を考え、何を考えなかったかを、どうして彼がそこまで確信できるのか分からない」と語った。誰が最初に見たのか。その答えは、「見た」をどういう意味に取るかで変わる。
起源
この集合の数学は、計算機より 60 年早く始まった。
フランスの数学者ガストン・ジュリアは、第一次世界大戦で 1915 年 1 月 25 日に顔の真ん中を撃たれた。何度手術しても鼻は戻らず、一生、顔に革の帯を当てて暮らした。199 ページの論文「有理関数の反復についての研究」は 1918 年に発表され、フランス科学アカデミーの大賞を受けた。同じ時期、ピエール・ファトゥも同じ問題を研究し、2 人はほぼ並んで結果を出した。
2 人が調べたのは、 のような式を複素数の平面でくり返したとき、点がどう動くかである。 を 1 つ決めると、くり返しても遠くへ飛んでいかない出発点 の集まりができる。その縁がいまジュリア集合と呼ばれるものである。ファトゥとジュリアは、この集まりがひと続きになるか、ばらばらの塵になるかは、 から始めた点の行方だけで決まることを示した。0 が遠くへ飛んでいかなければひと続き、飛んでいけば塵になる。
マンデルブロ集合は、この判定を の平面に描いたものである。 から始めて をくり返し、 がいつまでも大きくならない を塗りつぶす。つまり、ひと続きのジュリア集合を作る の地図である。
鉛筆と紙では、この地図は描けなかった。ジュリアとファトゥの研究は半世紀のあいだほとんど忘れられ、計算機で絵を描く人たちによって掘り起こされた。マンデルブロは 1975 年に「フラクタル」という言葉を作り、1982 年の『フラクタル幾何学』で、この集合の姿を広く知らせた。1985 年 8 月、『サイエンティフィック・アメリカン』のデュードニーの連載がこの集合を表紙にし、家庭の計算機で描く人が一気に増えた。
証明
集合に入る の範囲と、いちばん大きな部分の形を示す。 と書く。
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まず、半径 2 の円の外に出たら戻らないことを示す。 かつ とすると、三角不等式から
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()なら なので、1 回ごとに絶対値が少なくとも 倍になる。
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なら がすでにこの条件を満たすので、 は集合に入らない。よって集合は半径 2 の円板に収まり、計算では「 になったら外」と判定してよい。
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次に、最も大きな部分を求める。 となる不動点が、近くの点を引き寄せるのは、倍率 が 1 より小さいときである。()と置くと
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が単位円の内側を動くとき、 が埋める領域の縁は を代入した曲線で、ハートの形をしたカルジオイドである。この内側では、0 から始めた点は不動点に吸い込まれるので、集合に入る。
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2 回で戻る点は の解から不動点を除いたもので、 を満たす。2 つの解の積は なので、2 回分の倍率は である。これが 1 より小さい範囲は、中心 、半径 の円板になる。
カルジオイドと円板は点 で接する。その周りには 3 回・4 回・… で戻る点の円板が無数に付き、さらにその周りにも付く。集合がひと続きであることはドゥアディとハバードが証明した。縁がどこまで細かいかについては、宍倉光広が 1998 年に、縁のハウスドルフ次元が 2(平面と同じ)であることを証明した。縁が「局所連結」かどうかという予想(MLC 予想)は、いまも解かれていない。
応用
手で確かめる。 なら、 と往復して、遠くへは行かない。集合に入る。 なら、 と、すぐに 2 を越えて飛んでいく。集合に入らない。 なら、 と、3 回目から 2 つの点を往復する。この は集合の縁の上にある。 は で、左の端の点である。
くり返しの数が円周率を数える。 1991 年、デイヴ・ボルは、カルジオイドと円板の接点 のすぐ上、 で、2 を越えるまでのくり返しの回数が、 で 33 回、 で 315 回、 で 3143 回と、 に近づくことに気づいた。2001 年にアーロン・クレバノフがこれを証明した。
面積。 集合の面積は、計算機で点を数えて約 1.5066 と見積もられている。正確な値の式は知られていない。
深く拡大する計算。 倍率が上がるほど、隣の点との差が小さな桁に移る。ふつうの計算機の数(倍精度、約 16 桁)では、倍率がおよそ を越えるとまともな絵にならない。深く拡大する動画は、桁数を自由に増やせる計算や、1 本の基準の軌道からのずれだけを計算する方法(摂動法)で作られている。
図示
シミュレーション
画面をたたくと、その点を中心に 4 倍に拡大する。拡大はすっと寄って止まり、そのあと上から順に新しい絵に描き替わる。「たたくと」を「z の行き先」にすると、たたいた について を 1 歩ずつ結んでみせる。塗りつぶされた部分では点が集合の中を回り続け、外では 2 を越えて飛び去る。
広がる学問
- 数学 複素力学系の中心的な対象である。集合の縁のどの小さな部分にも、全体とよく似た小さな複製が見つかる。ロジスティック写像 は変数を取り替えると と同じ式になり、実軸の上の集合がその分岐図に対応する(ロジスティック写像)。
- 情報科学 1 点ずつ独立に計算できるので、並列計算や GPU の性能を見せる例としてよく使われる。どこまで正確な桁で計算すれば絵が崩れないかは、数値計算の教材にもなる。
- 美術 1980 年代半ばから、ポスターや画集、映像作品として広まった。ハインツ=オットー・パイトゲンとペーター・リヒターの画集『フラクタルの美』(1986)は、計算で描いた絵を作品として見せた早い例である。
- 地球科学 マンデルブロは 1967 年、海岸線は測る物差しを短くするほど長くなるという論文を書き、地形の複雑さを「次元」で測る考え方を示した。フラクタルの考え方は、海岸線や川の枝分かれ、地震の大きさの分布を調べるときに使われている。
参考文献
- B. B. Mandelbrot, "Fractal aspects of the iteration of z → λz(1−z) for complex λ and z", Annals of the New York Academy of Sciences 357 (1980), 249-259.
- R. Brooks, J. P. Matelski, "The dynamics of 2-generator subgroups of PSL(2,C)", in Riemann Surfaces and Related Topics, Annals of Mathematics Studies 97, Princeton University Press, 1981.
- A. Douady, J. H. Hubbard, "Itération des polynômes quadratiques complexes", Comptes Rendus de l'Académie des Sciences, Série I 294 (1982), 123-126.
- G. Julia, "Mémoire sur l'itération des fonctions rationnelles", Journal de Mathématiques Pures et Appliquées 8 (1918), 47-245.
- J. Horgan, "Mandelbrot Set-To", Scientific American 262(4) (1990 年 4 月号).(のちにウェブで "Who Discovered the Mandelbrot Set?" として再掲)
- M. Shishikura, "The Hausdorff dimension of the boundary of the Mandelbrot set and Julia sets", Annals of Mathematics 147 (1998), 225-267.
- A. Klebanoff, "π in the Mandelbrot set", Fractals 9 (2001), 393-402.