1980 年の 2 つの記録
1980 年 2 月 4 日から 5 日にかけての夜、フランスのグルノーブルの強磁場研究所で、クラウス・フォン・クリッツィングはシリコンのトランジスタを液体ヘリウムで冷やし、19.8 T の磁場をかけて測っていた。記録計に描かれたホール抵抗の平らな段は、プランク定数 と電気素量 だけで決まる の高さにあった。試料の形にも、電子の数にもよらない値だった。
同じ年の 12 月、IBM の研究所にいたブノワ・マンデルブロは、計算機で描いた図形を扱う論文を、ニューヨーク科学アカデミーの紀要に載せた。2 乗して を足す。それをくり返す。ガストン・ジュリアとピエール・ファトゥが 1918 年前後に調べた問いの答えを、計算機が 1 枚の絵にした。
1 つは強い磁石と液体ヘリウムの中で、もう 1 つは計算機の印字の上で見つかった式である。
この事典の 86 本の公式を起源の年で分けると、いちばん多いのは 17 世紀から 19 世紀の 33 本で、1980 年以降は 11 本である(書いた時点、2026 年 10 月 24 日)。円周率の研究でも、新しい公式はもう残っていないという考えが何度も広まった、と 1997 年の解説「π の探求」は書いている。それでも、この 40 年あまりに生まれた式は、感染症の検査や翻訳と対話の AI の中で毎日使われ、暗号の作り替えも促している。この特集は、その 11 本に、1980 年より前に生まれて 1980 年以降に観測や証明で確かめられた 3 本を加えてまとまりに分け、なぜこの時代にこうした式が生まれたのかを考える。
計算機が見つけ、確かめた式
マンデルブロ集合は、計算機が無ければ見えなかった図形である。 を からくり返し、遠くへ飛んでいかない を塗る。1 つの点を決めるのに何百回も計算するので、鉛筆と紙では地図にならない。ジュリアとファトゥの研究は、計算機で絵を描く人たちに掘り起こされるまで、半世紀ほど忘れられていた。
BBP の公式は、計算機が式を探し当てた例である。1995 年、ピーター・ボールウェイン、サイモン・プルーフ、デヴィッド・ベイリーらは、π と級数の間に整数の係数の関係が無いかを計算機で探した。1997 年の 3 人の論文は、整数関係アルゴリズム PSLQ による大がかりな探索で式を見つけたと書き、自分たちの証明は「発見の道筋をすっかり隠している」と添えた(だれがどの手段で見つけたかには、食い違う記録がある)。16 進法で書いた π の 桁目を、それより前の桁を求めずに計算できる式である。
チュドノフスキーの公式は 1988 年に論文になり、1 項足すごとに正しい桁が約 14 桁増える。兄弟は自分たちで組んだスーパーコンピュータでこの式を回した。円周率の計算のプログラム y-cruncher の作者アレクサンダー・イーは、1990 年代から 2000 年代のスーパーコンピュータの記録の多くは算術幾何平均の方法で、いまの記録はこの式で計算されている、と書いている。
計算機の役目は、3 つの式で違う。マンデルブロ集合では形を見る顕微鏡、BBP の公式では式を探す手段、チュドノフスキーの公式では式を使う相手である。
量子の式が、装置と手順になった
量子力学の土台は 1920 年代にできた(シュレーディンガー方程式)。1980 年以降の 2 つの量子の公式は、片方は測る装置の中で、片方は計算の手順の中で働く。
量子ホール効果は、実験が先に見つけた式である。試料はシリコンの MOSFET(電界効果トランジスタ)で、半導体の加工の技術が、厚さ数 nm の層に電子を閉じこめていた。段の高さは試料によらない。そこで 1988 年、国際度量衡委員会は 25812.807 Ω をこの値の約束の値とし、1990 年 1 月 1 日から、量子ホール効果で抵抗を測るすべての研究所が使うよう勧告した。
ショアのアルゴリズムは逆に、まだ無い機械のために書かれた式である。1994 年、AT&T ベル研究所のピーター・ショアは、量子計算機があれば となる周期 を速く見つけ、大きな数 を素因数に分けられることを示した。RSA 暗号の安全は、この分解の難しさに頼っている。2024 年 8 月 13 日、アメリカの国立標準技術研究所(NIST)は、量子計算機の攻撃に耐えるように作った暗号の標準を、初めて 3 つ定めた。
AI を動かす式
誤差逆伝播法は、1986 年 10 月にラメルハート、ヒントン、ウィリアムズが『ネイチャー』に出した論文で広まった。出力の誤差を後ろの層へ配り、すべての重みの直し方を一度に求める計算で、中身は微分の連鎖律である。同じ形の計算は、1960 年のヘンリー・ケリーをはじめ、別の目的で何度も書かれていた。2024 年のノーベル物理学賞の解説は、3 人はこの計算法を再発明したとし、より大事な点として、隠れた層をもつ回路が、その層が無ければ解けない課題を学べると示したことを挙げる。
トランスフォーマーの注意機構は、2017 年 6 月に Google の研究者ら 8 人が出した論文の式である。単語ごとのクエリとキーの内積を で割り、softmax で重みにして値を混ぜる。論文の大きいモデルは GPU 8 枚で 3.5 日学習し、英語からフランス語への翻訳で BLEU 41.8 を出した。
拡散モデルは、2015 年にヤッシャ・ソール=ディクスタインらが非平衡の統計物理から考えた。データに少しずつノイズを足して崩し、その逆向きをニューラルネットワークに学ばせる。2020 年のジョナサン・ホーらの論文(DDPM)は、CIFAR-10 の画像の生成で FID 3.17 を出した。
3 つとも、土台の数学は新しくない。連鎖律は微積分の基本の規則で、softmax の形は 1902 年にギブズが統計力学で名づけた正準分布と同じであり、ノイズの 1 歩は正規分布とマルコフ連鎖でできている。新しかったのは、何をどの順に計算させるかの組み立てと、それを大量のデータで回せる計算機である。誤差逆伝播法が何度も見つけ直されたのは、試せる計算機と課題がそろうのを待っていたからだ、とこの特集は推測する。
100 年来の問いに、新しい答え
数学では、1980 年以降に答えが出た問いの多くが、とても古い。
リッチフローとポアンカレ予想の問いは、ポアンカレが 1904 年の論文の終わりに置いたものである。1982 年にリチャード・ハミルトンが、空間の曲がり方を熱が広がるようにならす式 を出し、グリゴリー・ペレルマンが 2002 年 11 月から arXiv に置いた 3 本の原稿で、この式を使って予想を証明した。
8 次元の球の詰め込みは、1611 年にケプラーが書いた 3 次元の予想の、8 次元の版である。3 次元の予想は、トーマス・ヘイルズが 1998 年に計算機の大量の計算に頼って証明した。8 次元では、2016 年 3 月 14 日にマリナ・ヴィヤゾウスカが arXiv に置いた論文が、E8 格子より密な詰め方は無いことを示した。球が空間に占める割合は である。
フェルマーの最終定理は、1630 年代の書き込みから、1995 年のアンドリュー・ワイルズの論文と、リチャード・テイラーとワイルズの論文で証明された。起源の年は 1630 年代なので、この記事の最後の自動のマスには入らない。それでも、答えが出たのはこの時代である。
ペレルマンの 3 本の原稿は学術誌に出ないまま、ヴィヤゾウスカの論文は学術誌に載る前に、1991 年に始まった論文の公開サーバー arXiv に置かれた。
古い式を、大きな装置が確かめた
起源の年だけで並べると、外れてしまう式もある。式は古いが、確かめたのは大きな装置だった、という式である。
ニュートリノ振動の考えは、1957 年のブルーノ・ポンテコルボにさかのぼる。確かめたのは、5 万 t の水を光電子増倍管 1 万 1146 本で見張るスーパーカミオカンデで、梶田隆章が 1998 年 6 月に岐阜県の高山で開かれた国際会議で結果を話した。
重力波のチャープ質量は、1963 年にフィリップ・ピーターズとジョン・マシューズが計算した重力波の出方から出てくる。波をとらえたのは 2015 年 9 月 14 日の LIGO の 2 台の検出器で、ノーベル賞の発表によれば、LIGO は 20 を超える国の 1000 人以上の研究者による計画である。
2 本は 1980 年より前の年をもつので、この記事の最後の自動のマスには入らない。
生命の式は、手順になった
PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)の式 は、この特集でいちばん易しい。温めて冷ますたびに、DNA の決めた区間が 倍になる。理想の なら、30 回で 、つまり約 10 億倍である。
数学は易しいが、手順を動かすには新しい材料が要った。キャリー・マリスはシータス社で、プライマーになる短い DNA を合成する仕事をしていた。毎回酵素を足す手間は、1988 年に熱に強い Taq ポリメラーゼを使うことで無くなった。
ハーディー・ワインベルクの法則(1908 年)やホジキン・ハクスリーのモデル(1952 年)は、生き物の中で起きていることを表す。PCR の式は、人が試験管の中で動かす手順を表す。
マンデルブロ集合を拡大する
画面をたたくと、その点を中心に 4 倍に拡大し、上から順に描き直す。拡大するたびに、点ごとの計算をはじめからやり直していることが分かる。深く拡大したところで「くり返しの上限」を上げると縁の細かい形がはっきりし、描き直しには時間がかかるようになる。「たたくと」を「z の行き先」に切り替えると、たたいた について が線で結ばれ、集合の外では 2 を越えて飛び去る。
なぜ 1980 年以降なのか
まず、確かめたことを書く。上の公式の記事と原典には、式が生まれた場面に何が要ったかが記録されている。量子ホール効果には MOSFET と 19.8 T の磁場と液体ヘリウムが、PCR には合成した短い DNA が要り、3 年後には熱に強い酵素が手順を簡単にした。マンデルブロ集合は計算機で描かれ、BBP の公式は計算機の探索で見つかり、チュドノフスキーの公式は計算機で回されて記録を作った。ケプラー予想の証明も計算機に頼った。ニュートリノ振動と重力波は、大きな検出器と多くの研究者で確かめられた。注意機構の論文は GPU 8 枚で、DDPM の論文は Google のクラウドの TPU で学習させ、その結果を数字で示している。
ここからは推測である。1 つ目に、数学より先に、測ることと計算することが壁になっていた式が多い。誤差逆伝播法の計算も、ジュリアとファトゥの反復も、数学としては 1980 年より前に手の届くところにあった。計算機と装置が速く安くなった時期に、それらが広く使われるようになったと考えられる。
2 つ目に、「公式」の意味が広がった。11 本のうち、PCR、誤差逆伝播法、ショアのアルゴリズム、注意機構、拡散モデルの 5 本は、自然の振る舞いを表す法則ではなく、何をどの順に計算し、どう操作するかを表す手順である。
3 つ目に、この事典の選び方の影響がある。新しい式は、広く知られるまでの時間がまだ短い。1980 年は区切りとして選んだ年で、その前後で何かが急に変わったわけではない。ロジスティック写像は 1976 年の式で、時代はすぐ隣にある。
身の回りと、次に読む順番
身の回りでは、次の場面でこの特集の式が動いている。
- 感染症の PCR 検査。決めた明るさに届くまでの回数(Ct 値)が少ないほど、元の DNA が多い
- 翻訳や対話の AI の注意機構と、画像を作る AI の拡散モデル。どちらも誤差逆伝播法で学習する
- 電気の抵抗の基準と、量子計算機に耐える暗号への切り替え
- 円周率の記録。チュドノフスキーの公式で計算し、BBP の公式で離れた桁を確かめる
読む順番の例を挙げる。
- PCR。 を使い、30 回で約 10 億倍になることを自分で確かめる
- マンデルブロ集合。シミュレーションで拡大し、くり返しの上限を変えてみる
- 誤差逆伝播法、注意機構、拡散モデルの順。学習のしかた、文の扱い方、画像の作り方がつながる
- 量子ホール効果とショアのアルゴリズム。量子の式が、測定と計算でどう使われるかを比べる
- 最後にリッチフローと8 次元の球の詰め込み。証明の章は、道筋の説明が中心になる
量子ホール効果、PCR、ニュートリノ振動、重力波の観測では、発見や発明をした人がノーベル賞を受けた。誤差逆伝播法では、論文の著者の 1 人ヒントンが受けた。数学の 3 本は、フィールズ賞やアーベル賞の理由の文に名前が出てくる。受賞の理由の文はノーベル賞と公式で読める。1980 年より前の式との並びは年表で見られる。
式の記号に慣れていなければ、先に次の 2 本を読むと、BBP の公式やチュドノフスキーの公式の Σ、リッチフローの ∂ が読みやすくなる。
1980 年以降の公式
下のマスは、起源の年が 1980 年以降の公式を、年の順にすべて並べたものである。新しい公式の記事が増えると、ここも増える。
参考文献
- K. v. Klitzing, G. Dorda, M. Pepper, "New Method for High-Accuracy Determination of the Fine-Structure Constant Based on Quantized Hall Resistance", Physical Review Letters 45 (1980), 494-497; 国際度量衡委員会(CIPM)1988 年の勧告 2(BIPM)
- B. B. Mandelbrot, "Fractal aspects of the iteration of z → λz(1−z) for complex λ and z", Annals of the New York Academy of Sciences 357 (1980), 249-259.
- R. K. Saiki et al., Science 230 (1985), 1350-1354; R. K. Saiki et al., Science 239 (1988), 487-491.
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- "Press release: The Nobel Prize in Physics 2017"(NobelPrize.org); "About arXiv"(info.arxiv.org)