貯金で書いた原稿
2002 年 11 月 11 日、論文の原稿を公開する保管庫 arXiv に、39 ページの原稿が置かれた。題は「リッチフローのエントロピーの式と、その幾何学への応用」。著者はグリシャ・ペレルマン。所属は、ステクロフ数学研究所のサンクトペテルブルク支部だった。
1 ページ目の脚注には、研究の費用の一部を、1992 年秋のクーラント研究所(ニューヨーク大学)、1993 年春のストーニーブルック校、1993〜95 年のバークレー校(ミラー研究員)に滞在したときの貯金でまかなったとある。序文には「この論文では、ハミルトンの計画の細部のいくつかを実行する」とある。2003 年 3 月 10 日に 22 ページの 2 本目、7 月 17 日に 7 ページの 3 本目が続いた。
2006 年 8 月 22 日、マドリードで国際数学者会議が開幕した。開会式で国際数学連合が発表したフィールズ賞の 4 人の 1 人がペレルマンで、理由は「幾何学への貢献と、リッチフローの解析的・幾何的な構造への革命的な洞察」だった。『ネイチャー』によれば、会場に来たのは 3 人で、会長のジョン・ボールは「ペレルマン博士が受賞を辞退したことを残念に思う」と述べた。
2010 年 3 月 18 日、クレイ数学研究所は、ミレニアム懸賞問題の最初の賞をペレルマンに贈ると発表した。7 つの問題に 1 問 100 万ドルをかけた懸賞である。7 月 1 日、ペレルマンはインタファクス通信に、賞を断ったと語った。「ひとことで言えば、主な理由は、組織された数学の共同体に同意できないことだ。彼らの決定は気に入らない。不公平だと思う」。そして、この問題の解決への、アメリカの数学者ハミルトンの貢献は「私のものに少しも劣らない」と続けた。研究所はのちに、この賞金でパリのアンリ・ポアンカレ研究所に若い数学者の職を設け、ペレルマンがミラー研究員として得たような機会を与えたいと書いた。
ポアンカレの問いと、熱のようにならす式
1904 年、アンリ・ポアンカレは『パレルモ数学会報告集』18 巻に「位置解析への第 5 の補足」を載せた。位置解析は位相幾何学の古い呼び名である。ポアンカレは 1900 年に、穴の数を数えるベッティ数などが球面と同じなら球面だと誤って述べていた(ミルナー)。この論文はその反例を作る。ベッティ数もねじれ係数も球面と同じなのに、基本群が位数 120 の群になる 3 次元の多様体である。
論文の終わりに問いが置かれる。「残る問いが 1 つある。 の基本群が恒等置換だけになるのに、 が単連結でない、ということはありうるか」。ポアンカレは論文の初めで、単連結を「本来の意味、つまり超球面と同相」の意味で使うと断っている。言い換えのあと、論文はこう終わる。「しかし、この問いはわれわれをあまりに遠くへ連れて行くだろう」。
基本群が自明とは、多様体の中のどんな輪も、外へ出ずに 1 点まで縮められることである(図示の 1 枚目)。閉じた 3 次元の多様体でこれが成り立てば 3 次元の球面と同相である、という主張がポアンカレ予想である。5 次元以上では 1961 年にスティーヴン・スメイルが、4 次元では 1982 年にマイケル・フリードマンが、同じ形の主張を証明し、3 次元だけが残った。同じ 1982 年、ウィリアム・サーストンは『アメリカ数学会報』で、閉じた 3 次元多様体は、8 種類の幾何のどれかをもつ部品に切り分けられるという幾何化予想を述べた。ポアンカレ予想はその特別な場合にあたる。
この年、コーネル大学のリチャード・ハミルトンは『微分幾何学雑誌』17 巻に「正のリッチ曲率をもつ 3 次元多様体」を発表し、この記事の式を導入した。 は空間の距離の測り方(計量)、 はそれを 2 回微分して作る曲がり方(リッチ・テンソル)で、アインシュタイン方程式の左辺にも現れる。ミルナーの言い方では、正に曲がった向きほど距離が縮むように計量を変え、熱が広がって温度がそろうように、曲がりを広げて一様にする。ハミルトンは、正のリッチ曲率をもつ閉じた 3 次元多様体では、体積を一定に保つように大きさを直しながら流すと、計量が一定の正の曲率の計量に近づくことを証明した。同じ年、ブダペストの国際数学オリンピックで、ソ連代表のペレルマンが 6 問すべて満点の 42 点で金メダルを得ている。
同じ形の式は物理学でも見つかっていた。1980 年、ダニエル・フリーダンは、2 次元の非線形シグマ模型のくりこみ群(見る尺度を変えたときの理論の変わり方)が計量の空間の上の流れになり、その式にリッチ・テンソルが現れることを示した。クレイ数学研究所の 2010 年の発表は、物理と数学で別々に見つかった式だと書く。
一般の計量では、流れの途中で曲がりが限りなく大きくなる所(特異点)ができることがある。典型は、亜鈴の首のような細い管がつぶれる形である。そこで首を切り、切り口に小さな蓋をして流れを続ける(手術)。手術が有限の時間に有限回で済み、流れの行く末が分かれば、もとの多様体の形が分かる。これがハミルトンの計画だった(図示の 2 枚目)。ペレルマンの原稿は、時間とともに増え続ける量(エントロピー)を見つけて特異点の近くの形を少しの型に絞り、手術の時刻が限りなく詰まっていかないことを示して、計画の壁を越えた。
2006 年、確かめの仕事がそろった。5 月にブルース・クライナーとジョン・ロットが、2003 年からウェブに公開してきた注釈を arXiv に置き、7 月にジョン・モーガンと田剛が約 500 ページの本の原稿を置いた。6 月に題に「完全な証明」とある論文を載せた曹懐東と朱熹平は、クライナーとロットから二人の注釈を引いていないと指摘され、見落としを訂正で詫びた。12 月の改訂版では、証明の功績はすべてハミルトンとペレルマンにあるという考えに合わせて題を改めた。ハミルトンは 2024 年 9 月 29 日に亡くなった。コロンビア大学は、彼の仕事が幾何学的な流れという分野を開いたと記した。
球が点に縮む計算と、2π ずつ減る面積
証明そのものは数百ページになる。ここでは式の働きを球と円で確かめ、ペレルマンの 3 本目の原稿の要の不等式が同じ計算から出ることを示す。添え字は を走り、上下にそろった添え字は足し合わせる。
-
座標で書くと、リッチ・テンソルは計量の 2 階の微分と、1 階の微分の 2 次の項からなる。
-
かっこの中の後ろの 3 つは、流れに合わせて座標を少しずつ動かすと消せる(デタークの方法、1983 年)。残るのは、成分ごとの熱方程式 と同じ型の式に、1 階の微分だけの項を足した形である。
-
半径 の 次元の球面では、計量は半径 1 の球面の計量 の 倍で、リッチ・テンソルは次の形になる( では )。
-
形を保って半径だけが変わるとして式に入れると、右辺は によらない。
-
積分すると、半径の 2 乗が一定の速さで減る。3 次元の球面は、時刻 に 1 点へ縮む。
-
2 次元では ( はガウス曲率)なので、面積の要素は の割合で縮む。
-
ガウス・ボネの定理 を使う。 はオイラーの多面体定理の で、球面では 2 である。卵形でもでこぼこでも、面積は同じ速さで減る。
-
1 つ下の次元の、平面の閉じた曲線で考える。各点を、曲率 の速さで曲がっている側へ動かす(曲線短縮流)。円では なので、半径は 2 次元の球面と同じ式で縮む。
-
長さ の部分は時間 に だけ動き、面積を 削る(へこんだ所は が負で、外へふくらむ)。自分と交わらない閉じた曲線を 1 周すると接線はちょうど 1 回転する(回転数の定理)ので、 の和は である。
-
長さは で減る。9 と合わせて、等周比 の変わり方を求める。
-
ゲージは 1983 年に、凸の曲線では次の不等式が成り立つことを示した。凸の曲線の等周比は減り続け、等周不等式 の下限、円の へ向かう。
-
ペレルマンの 3 本目の原稿は、多様体の中の輪を曲線短縮流で、計量をリッチフローで同時に動かす。輪に張った最小の膜の面積 について、9 の回転数の定理を曲面に広げたガウス・ボネの定理から が出る( はスカラー曲率の最小値。平らなら 9 と同じ式)。
-
スカラー曲率の式 と から、定数 をとって となる。12 に入れると、 は次を満たす。
-
右辺を積分すると、 のように限りなく大きくなる。 は、まとめて 1 点へ縮められない輪の族から決める量で、多様体が残るかぎり正である。だから流れは有限の時刻で終わる(多様体が消える)しかない。
2 の形は、ナビエ・ストークス方程式の粘性の項 と同じ熱方程式の型である。あちらは解が滑らかに続くかが懸賞の問いだが、リッチフローは滑らかさが壊れることを認め、手術で先へ進んだ。
14 までの筋は難しい所を飛ばしている。輪が同じ弧を折り返す形だと曲線短縮流をうまく決められないので、ペレルマンはアルトシューラーとグレイソンの方法で 1 つ上の次元に持ち上げた。単連結な閉じた 3 次元多様体では手術つきの流れ(2 本目の原稿)が有限の時刻で消え、同じ原稿の分類により、それは球面を有限の群で割った形と をつなぎ合わせたものになる。単連結になるのは 3 次元の球面だけなので、予想が成り立つ。完全な証明は、ペレルマンの 3 本の原稿と、クライナーとロットの論文、モーガンと田剛の本にある。
応用
同じ面積なら、同じ時刻に消える。 半径 1 の円は面積 で、 から に点へ縮む。1 辺 の正方形も面積は で、角はすぐ丸まり、やはり に消える。証明の 9 から で、消える時刻は形によらず である。これには、曲線が途中で特異点を作らないことが要る。凸の曲線は丸い点に縮むことをゲージとハミルトンが 1986 年に、自分と交わらない曲線はやがて凸になることをグレイソンが 1987 年に示した。
細かいでこぼこほど早く消える。 円に小さなでこぼこを足し、半径を 、 の 回の波の成分を と書く。 について 1 次まで近似すると となり、 と合わせて が出る(この記事での計算。数値でも確かめた)。 は半径に対する割合で、高さ は に比例する( は円をずらしただけで、ずれは変わらない)。半径が 0.8 倍になるあいだに、 は楕円のような で 0.64 倍、 で 0.21 倍、 で 0.0059 倍になる(図示の 3 枚目)。フーリエ級数で熱方程式を解くと 番目の波が で消えるのと同じく、細かい波ほど速く消える。
金属の結晶粒。 ふつうの金属は小さな結晶(結晶粒)の集まりで、温めると粒が育つ。1956 年、ウェスティングハウス研究所のウィリアム・マリンズは、平面の粒の境目が曲率に比例する速さで動き、境目が 3 本ずつ 120° で出会うなら、まわりの粒が 個の粒の面積の変わる速さは、形によらず に比例することを示した。泡についてのフォン・ノイマンの規則を広げた結果で、証明の 9 と同じ計算である。粒を 1 周するあいだに、接線は角で 、曲がった辺で だけ回る。境目の動きやすさと張力の積を とすると となる。6 角形の粒は大きさが変わらない。5 角形は 、4 角形は の速さで縮み、7 角形は育つ。1 つの粒の中に浮かぶ粒は で、 の速さで縮む。
図示
2 枚目の下の段はシミュレーションと同じ計算による。曲面を平均曲率の速さで動かす流れでは、首の細く長い亜鈴は点に縮む前に首がつぶれる(グレイソン、1989 年)。平面の曲線では、1987 年の定理により首はつぶれない。3 枚目は、初めの半径を 1 として で描いた。
シミュレーション
どの形も初めの面積は である。矢印は各点の動く速さ で、とがった所は速く内へ、へこんだ所は外へ動く。グラフでは、どの形の面積も傾き の破線に沿って減り、 でそろって 0 になる。「大きさをそろえて見る」にすると、亜鈴の首が太り、渦巻きがほどけて、どれも円に近づく。
広がる学問
- 数学 ペレルマンの仕事で、閉じた 3 次元多様体の分類(幾何化予想)が完成した。曲面にはいつも一定の曲率の計量がある、という 2 次元の結果の 3 次元版である。2009 年にブレンドルとシェーンは、各点で断面曲率の最小が最大の 4 分の 1 より大きい多様体を、リッチフローで一定の曲率の形に変形できることを示した。
- 物理学 2 次元の非線形シグマ模型のくりこみ群は、近似でリッチフローになる(フリーダン、1980 年)。ペレルマンも序文でこの関係に触れ、エントロピーを統計力学の言葉で読んだ。その重み は熱の広がりを表すガウス関数で、ブラウン運動の と同じく長さの 2 乗が時間に比例する。
- 工学 熱処理で金属の結晶粒がどう育つかを考えるとき、マリンズの の規則(1956 年)が基本になる。まわりの粒が 6 個より少ない粒は縮んで消えていく。
参考文献
- H. Poincaré, "Cinquième complément à l'Analysis situs", Rendiconti del Circolo Matematico di Palermo 18 (1904), 45-110(1903 年 11 月 3 日付); J. Milnor, "The Poincaré Conjecture", クレイ数学研究所(2004 年改訂).
- R. S. Hamilton, "Three-manifolds with positive Ricci curvature", J. Differential Geom. 17 (1982), 255-306; D. Friedan, Phys. Rev. Lett. 45 (1980), 1057-1060; D. DeTurck, J. Differential Geom. 18 (1983), 157-162; W. P. Thurston, Bull. Amer. Math. Soc. 6 (1982), 357-381.
- G. Perelman, arXiv:math/0211159(2002 年 11 月 11 日)、math/0303109(2003 年 3 月 10 日)、math/0307245(2003 年 7 月 17 日).
- B. Kleiner, J. Lott, Geom. Topol. 12 (2008), 2587-2855; J. Morgan, G. Tian, Ricci Flow and the Poincaré Conjecture, AMS/CMI (2007); H.-D. Cao, X.-P. Zhu, Asian J. Math. 10 (2006), 165-492; 改訂版 arXiv:math/0612069.
- M. Gage, Duke Math. J. 50 (1983), 1225-1229; M. Gage, R. S. Hamilton, J. Differential Geom. 23 (1986), 69-96; M. A. Grayson, J. Differential Geom. 26 (1987), 285-314 と Duke Math. J. 58 (1989), 555-558; W. W. Mullins, J. Appl. Phys. 27 (1956), 900-904; R. F. Sekerka, 全米科学アカデミーのマリンズの伝記(2014 年); S. Brendle, R. Schoen, J. Amer. Math. Soc. 22 (2009), 287-307.
- 国際数学連合, 2006 年のフィールズ賞(mathunion.org); J. Hogan, Nature News(2006 年 8 月 22 日); 国際数学オリンピック公式サイトの 1982 年の成績.
- クレイ数学研究所の発表(2010 年 3 月 18 日)と Poincaré Chair の知らせ(2014 年 3 月 4 日); インタファクス通信(2010 年 7 月 1 日); コロンビア大学数学科の訃報(2024 年 10 月 2 日).