州道 128 号の夜
1983 年 4 月のある金曜の夜、キャリー・マリスは、カリフォルニア州のバークレーから北のメンドシーノにある山小屋へ、車を走らせていた。同乗していた恋人で化学者のジェニファー・バーネットは、眠っていた。マリスは 1979 年の秋から、シータス社で短い 1 本鎖の DNA(オリゴヌクレオチド)を合成する仕事をしていた。この夜のことは、マリス自身が 1990 年 4 月の『サイエンティフィック・アメリカン』の記事と、1993 年 12 月 8 日のノーベル賞の講演で語っている。
マリスが考えていたのは、人の DNA の決まった 1 か所の塩基を調べる実験の手順だった。短い DNA を 2 本使い、1 本は上の鎖に、もう 1 本は下の鎖に結びつけ、酵素の DNA ポリメラーゼでそれぞれを伸ばす。手順の不具合を 1 つずつつぶしているうちに、マリスは気づいた。伸びた鎖を熱で外すと、伸びた部分には、もう 1 本の短い DNA が結びつく場所ができている。もう一度同じことをすれば、目当ての区間の数は 2 倍になる。繰り返すたびに、また 2 倍になる。
講演によれば、花をいっぱいに付けたカリフォルニア・バックアイ(トチノキの仲間)の花の穂が、道へ垂れかかっていた。マリスは計算機のプログラムをよく書いていて、同じ操作を前の結果にかけ続ける繰り返しの強さを知っていた、と記事に書いている。頭の中で 2、4、8、16、32 と数え、車を止めて、グローブボックスの紙で確かめた。1990 年の記事では、アンダーソン・ヴァレーを見下ろす待避所で止まり、2 の 20 乗が 100 万を超えることを確かめたとある。1993 年の講演では、州道 128 号の 46.7 マイルの標識で止まり、2 の 10 乗がおよそ 1000、20 乗がおよそ 100 万、30 乗がおよそ 10 億だと確かめた、と語っている。どちらも本人の回想で、細部が少し違う。
1 マイルほど進んで、マリスはもう 1 つのことに気づいた。数回繰り返すと、増える DNA の長さは 2 本の短い DNA の位置で決まり、どれも同じ長さになる。もう一度車を止めた。小屋に着くと、明け方まで、書けるところならどこにでも図を描いた。月曜の朝に図書館で調べても、この方法を試した記録は見つからなかった。同僚に話しても、乗り気になる人はほとんどいなかった。
最初にうまくいった実験は 12 月 16 日だった、とマリスは講演で語っている。人の DNA はいったんあきらめ、プラスミド pBR322 の短い区間を狙った。手伝ったのは、マリスが技術員として雇った若い数学者、フレッド・ファローナである。マリスはまた講演で、最初の PCR の論文を Science 誌に断られたことと、その 3 年後に同じ誌が PCR を「今年の分子」に選んだことを並べて語っている。どちらのときも編集長はダニエル・コシュランドだった。同誌の 1989 年 12 月 22 日号を見ると、選ばれた分子は PCR を進める DNA ポリメラーゼである。
1985 年の論文
DNA ポリメラーゼは、1 本鎖の DNA を鋳型にして向かい合う鎖をつないでいく酵素で、つなぎ始めるには鋳型に結びついた短い鎖(プライマー)が要る。この酵素で DNA を大量に作れないか、という問いは PCR より前からあった。1990 年の記事によれば、1984 年春に社内の研究会でマリスのポスターを見たジョシュア・レダーバーグは、DNA ポリメラーゼを見つけたアーサー・コーンバーグと 20 年ほど前にそれを話し合ったが、方法は考えつかなかったと語った。
1971 年 3 月には、コラナの研究室のクレッペらが、合成した短い DNA を DNA ポリメラーゼで写す実験を『分子生物学雑誌』56 巻に発表していた。論文の最後の段落には、プライマーの濃さで不具合を避けられなければ、鎖を分けてから写すしかなく、写すたびに鎖を分ける操作を繰り返すことになる、という見通しが書かれている。この段落は、のちに特許の裁判で読み上げられた。
1985 年 12 月 20 日の Science 230 巻に、シータス社のランドール・サイキ、スティーブン・シャーフ、ファローナ、マリス、グレン・ホーン、ヘンリー・エーリック、ノーマン・アーンハイムの論文が載った。鎌状赤血球症を胎児の段階で診断する方法の論文で、β グロビン遺伝子の 110 塩基対の区間を増やし、1 日かからずに遺伝子の型を決めた。
手順は手作業だった。95 °C で 5 分温めて 2 本の鎖をほどき、30 °C の加熱台に移して 2 分、プライマーを結びつける。大腸菌の DNA ポリメラーゼ I の一部(クレノウ断片)を加え、さらに 2 分置く。これを 20 回繰り返した。酵素は熱で壊れるので、毎回新しく加えた。論文は増え方を式に書いている。1 回あたりの平均の効率を 、回数を 、増えた倍率を として である。量の分かった標準と比べると、効率はおよそ 85 % で、20 回で約 22 万倍()だった。この記事の式は、この を と書き、元の数 を掛けたものである。
毎回酵素を足す手間をなくしたのは、熱に強い酵素だった。1969 年、ブロックとフリーズは、イエローストーン国立公園の温泉などから、70 °C でいちばんよく育つ細菌テルムス・アクアティクスを分けて報告した。1976 年には、チエン、エドガー、トレラがこの細菌から、80 °C でいちばんよく働く DNA ポリメラーゼを取り出した。1988 年 1 月 29 日の Science 239 巻で、サイキらはこの Taq ポリメラーゼを PCR に使った。酵素は最初に 1 回入れるだけでよくなり、高い温度でプライマーを結びつけられるので、狙った区間だけがよく増えた。1 つしかない遺伝子の区間が 1000 万倍以上に増えた。
1989 年、化学会社のデュポンは、シータス社の PCR の基本の特許 2 件は新しい発明ではないとして、カリフォルニア北部地区の連邦地方裁判所に訴えた。先に知られていた例として、コラナの研究室の論文などを挙げた。審理では、1971 年の論文の著者の 1 人イアン・モリニューや、コーンバーグ、マリスらが証言した。1991 年 2 月 27 日、陪審は、特許が無効かどうかを問う質問のすべてに「いいえ」と答えた。
1993 年 10 月 13 日、スウェーデン王立科学アカデミーは、ノーベル化学賞を、マリスと、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学のマイケル・スミスに半分ずつ贈ると発表した。マリスは「ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)法の発明」、スミスは短い合成 DNA を使って遺伝子の決めた場所を書き換える方法(部位特異的変異導入)を確立したことが理由である。
1992 年と 1993 年、ロシュ・モレキュラー・システムズのラッセル・ヒグチらは、2 本鎖の DNA に結びつくと強く光る色素(臭化エチジウム)を反応液に入れ、管を開けずに DNA が増えていく様子を測った。1993 年の論文では、ビデオカメラで多くの管を同時に見て、光が見えるまでの回数が少ないほど、元の DNA が多いことを示した。この回数が、いま Ct 値と呼ばれるものである。2009 年の定量 PCR の指針 MIQE は、呼び名を Cq(定量サイクル)にそろえるよう提案した。
2 倍ずつ増える理由と Ct の式
1 回の操作(サイクル)では、高い温度で 2 本の鎖をほどき、温度を下げてプライマーを結びつけ、酵素で伸ばす。数は、目当ての区間の 1 本鎖で数える(2 本鎖 1 本は 1 本鎖 2 本で、比は変わらない)。 回のあとの数を とする。
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次の 1 回で、 本の鋳型のうち割合 が、プライマーから区間の端まで写される。写された鋳型 1 本につき、新しい鎖が 1 本できる。
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比 が毎回同じなので、 は等比数列である。同じ式を 回たどると
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すべての鋳型が写される では、1 回ごとにちょうど 2 倍で、30 回では
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回ごとに新しくできる本数 を足し合わせると、等比級数の和になり、増えた分 と一致する。
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蛍光が決めた強さ(しきい値)に届く数を 、届いた回数を とする。2 の式に を入れると
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両辺の常用対数をとり、対数の法則 を使う。
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について解く。
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と が同じなら、 は の 1 次式である。
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では傾きは次の値で、元の量が 10 倍なら は約 3.32 回早くなる( なら傾きは )。
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逆に、量の分かった DNA を 10 倍ずつ薄めた列で傾き を測れば、効率が求まる。MIQE が示す式である。
1 で「区間の端まで写される」としたのは、最初の数回は事情が違うからである。元の鎖を鋳型にすると、片方の端だけがプライマーで決まり、もう片方の端が決まらない長い写しができる。長い写しを鋳型にして初めて、プライマーからプライマーまで、ちょうどの長さの鎖ができる。1 本の 2 本鎖から で始めると、 回のあとの 2 本鎖は 本で、元の鎖や長い写しを含むものは 本ある。ちょうどの長さの 2 本鎖は 本で、3 回目に初めて 2 本でき、30 回では 本と、ほとんどすべてを占める(図示の 1 枚目)。
この式が成り立つのは、材料と酵素が足りているあいだだけである。酵素の量は決まっているので、写す相手が増えすぎると、1 回の伸長で写せる本数に上限ができる。基質をいくら増やしても反応の速さが を超えないミカエリス・メンテン式と同じ理屈である。カインツの 2000 年の実験では、2 本鎖の DNA の断片が酵素の分子のおよそ 30 倍あると、Taq ポリメラーゼが断片に結びついて働かなくなった。後の回で増えた DNA そのものも、同じように酵素を止めていた。Ct を、まだ指数で増えている途中の回数で決めるのはこのためである。
応用
効率の差は、30 回で大きく開く。 なら 30 回で 倍になる。 なら 倍で、 の 21 % にとどまる。 では 倍で、4.2 % しかない。効率の 0.1 の差が、30 回重なると 5 倍近い差になる。
検量線で量を読む。 定量 PCR では、量の分かった DNA を 10 倍ずつ薄めた列を、調べたい試料と一緒に測る。Ct を に対して並べると、直線になる(図示の 3 枚目)。たとえばしきい値を 本とすると、 では 1000 本で Ct は 23.25、1 万本で 19.93 で、差は 3.32 回である。傾きが なら効率は 100 %、 なら 90 % になる。調べたい試料の Ct を同じ直線にあてはめれば、元の量が分かる。
検査の Ct 値は、検査ごとに物差しが違う。 米国感染症学会(IDSA)と分子病理学会(AMP)の共同声明は、新型コロナウイルスの PCR 検査の Ct 値を、目当てのウイルスの核酸が背景と区別できる量まで増えるのに要した回数と説明し、ウイルスが多いほど Ct は小さいとしている。そのうえで、米国で緊急使用が認められた検査は陽性か陰性かを決める設計で、Ct は濃さの分かった標準でそろえられておらず、検査法や検査室が違えば直接比べられない、と注意している。声明が引くアメリカ病理学会の技能試験では、同じ対照の試料でも、検査法によって Ct の中央値が最大 14 回違った。同じ機械で測り直しても、中央値で 3 回ずれた。式で言えば、Ct を元の量に直すには と が要り、それが検査ごとに違う。3 回のずれは、 なら量にして 倍にあたる。
図示
2 枚目の頭打ちは、1 回の効率が量とともに に下がる簡単な模型で描いた。
シミュレーション
自動で進めると、上の帯で温度が約 98 °C と約 60 °C を行き来し、1 回ごとに 1 本の 2 本鎖が 2 本になる。ふつうの目盛りの棒グラフは、指数で増えるあいだ、最後の数本しか見えないほど急に伸びる。対数の目盛りでは、10 倍ずつ違う 4 本の管が平行な直線になり、しきい値に届く回数の差が下に出る。効率 を下げると差は に広がる。「1 本ずつの偶然」では 1 本ずつ確率 で写す(効率 1 なら 0.9 に下がる)。1 本の管から始めると、「最初から」のたびに Ct が変わる。
広がる学問
- 生物学 ノーベル賞の発表は、遺伝子の塩基の並びを読む作業と、遺伝子を取り出して増やす作業(クローニング)が大きく簡単になったと書く。ごく少ない材料から、種どうしの遺伝的なつながりも調べられるようになった。
- 医学 1985 年の論文は、鎌状赤血球症の出生前診断のためのものだった。1993 年のノーベル賞の発表は、微生物を培養せずにウイルスや細菌の感染を見つけられること、HIV の感染の発見、遺伝病の原因の変化を調べることを例に挙げている。
- 化学 酵素による DNA の合成を、温度の上げ下げで区切って繰り返す化学の方法である。賞も化学賞で、「DNA にもとづく化学の方法の発展」への貢献とされた。
- 数学 増え方は比 の等比数列で、Ct は底 の対数である。 で 10 倍の差が 回の差に変わるのは、掛け算を足し算に直す対数の性質による。
参考文献
- R. K. Saiki et al., "Enzymatic amplification of β-globin genomic sequences and restriction site analysis for diagnosis of sickle cell anemia", Science 230 (1985 年 12 月 20 日), 1350-1354.
- R. K. Saiki et al., "Primer-directed enzymatic amplification of DNA with a thermostable DNA polymerase", Science 239 (1988 年 1 月 29 日), 487-491; T. D. Brock, H. Freeze, J. Bacteriol. 98 (1969), 289-297; A. Chien et al., J. Bacteriol. 127 (1976), 1550-1557.
- K. B. Mullis, "The unusual origin of the polymerase chain reaction", Scientific American 262(4)(1990 年 4 月), 56-65; K. B. Mullis, ノーベル賞講演 "The Polymerase Chain Reaction"(1993 年 12 月 8 日), nobelprize.org; R. L. Guyer, D. E. Koshland Jr., Science 246 (1989), 1543-1546.
- スウェーデン王立科学アカデミー, 1993 年のノーベル化学賞の発表(1993 年 10 月 13 日), nobelprize.org.
- K. Kleppe et al., J. Mol. Biol. 56 (1971), 341-361; E. I. du Pont de Nemours & Co. v. Cetus Corp., No. C 89-2860 MHP (N.D. Cal.) の審理の記録と評決(1991 年 2 月 27 日), デューク大学図書館 DukeSpace.
- R. Higuchi et al., Bio/Technology 10 (1992), 413-417 と 11 (1993), 1026-1030; S. A. Bustin et al., "The MIQE guidelines", Clin. Chem. 55 (2009), 611-622; P. Kainz, Biochim. Biophys. Acta 1494 (2000), 23-27.
- IDSA, AMP, "IDSA and AMP joint statement on the use of SARS-CoV-2 PCR cycle threshold (Ct) values for clinical decision-making"(2021 年 3 月 12 日更新).