亀に追いつけない
紀元前 5 世紀、イタリア南部の町エレアに、ゼノンという哲学者がいた。師のパルメニデスは、ありのままの世界は 1 つで、動きも変化も見かけにすぎないと説いた。ゼノンは、動きがあると考えるとかえって矛盾が生じることを示す議論を、いくつも作って師を弁護した。
ゼノンの本は残っていない。プラトンの対話篇『パルメニデス』は、40 歳ほどのゼノンが師と共にアテナイを訪れ、自分の本を読み聞かせた場面を描いている。議論の中身を伝える最も古い記録は、100 年ほど後のアリストテレス『自然学』第 6 巻 第 9 章である。そこには運動についての 4 つの議論が並ぶ。
1 つめは「二分法」と呼ばれる。ゴールに着くには、まず道のりの半分に着かなければならない。半分に着くには、その前に 4 分の 1 に着かなければならない。その前には 8 分の 1 がある。この手順は終わらないので、動き始めることさえできない。
2 つめが「アキレス」である。アリストテレスの言葉では、最も遅い走者は最も速い走者に決して追いつかれない。追う者は、まず追われる者が出発した地点に着かなければならず、その間に遅い者は少し先へ進んでいるからである。トロイア戦争の英雄で足の速いアキレスと、のろい亀の競走として語られるのは後の時代の形で、6 世紀のシンプリキオスの注釈には亀が出てくる。
アキレスが亀のいた場所に着くと、亀はその少し先にいる。そこに着くと、亀はまた少し先にいる。この「少し先」は無限に続く。だからアキレスは亀に追いつけない、という論法である。誰もが、実際には追い越せると知っている。それでも、どこが間違っているかを言うのは難しかった。
ゼノンの最期についても話が伝わる。3 世紀ごろのディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』によれば、ゼノンは町の僭主を倒そうとして捕らえられ、拷問を受けた。僭主の耳に噛みついて離さなかったとも、自分の舌を噛み切って吐きつけたとも書かれ、伝える人によって話が違う。どれが本当かは分からない。
倍々に増える数の足し算には、もう 1 つ有名な言い伝えがある。こちらは 64 項で終わる有限の和である。チェスを考え出した賢者が王に褒美を聞かれ、盤の 1 マス目に麦を 1 粒、2 マス目に 2 粒と、1 マスごとに倍にして 64 マス分ほしいと頼んだ。合計は 粒になる。1 粒を 0.04 g と仮定すると約 7400 億トンで、今の世界の小麦の生産量(年に約 8 億トン)の 900 年分を超える。この話を伝える古い記録として、13 世紀のイブン・ハッリカーンの人名辞典がよく挙げられる。
起源
等比数列の和の計算は、ゼノンよりずっと古い。
紀元前 1550 年ごろに書記アフメスが写したエジプトの『リンド数学パピルス』の問題 79 には、7 軒の家、49 匹の猫、343 匹の鼠、2401 本の麦の穂、16807 ヘカトの麦、という 7 倍ずつの数が並び、合計 19607 が書かれている。計算の欄には もある。 であり、和を「前の和に 1 を足して 7 倍する」形で求めたと読める。
紀元前 300 年ごろのエウクレイデス『原論』第 9 巻 命題 35 は、有限の等比数列の和を求める規則を、比の言葉で証明している。今の記号に直すと、 と同じ内容である。
無限に続く和を実際に使ったのはアルキメデスである。『放物線の求積』で、放物線と弦に囲まれた面積が、内側の三角形の 倍であることを示した。三角形を次々に足していくと、面積は 倍になる。アルキメデスは「無限に足す」とは言わず、有限の和に「最後の項の 」を足すとちょうど になることを示し、 より大きいとも小さいとも言えない、という二重の背理法で結論を出した。
14 世紀パリのニコル・オレームは、等比級数の和を自由に扱い、さらに が限りなく大きくなることを証明した。項が 0 に近づいても、和が有限とは限らない。
無限の和を「途中までの和が近づいていく値」と定める今の考え方は、1821 年のオーギュスタン=ルイ・コーシー『解析教程』で整った。アキレスの問題に対する数学の答えは、ここで初めて言葉にできるようになった。
証明
初項 1・公比 の等比数列を 項まで足した和を とする。
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和を書き出す。
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両辺に を掛ける。
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1 から 2 を引くと、間の項がすべて消える。
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なら両辺を で割れる。
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なら、 は を大きくすると 0 に近づく。
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よって無限に足した和は
なら和は限りなく大きくなるか、 のように揺れ続け、1 つの値に決まらない。
アキレスに当てはめる。 アキレスが秒速 10 m、亀が秒速 1 m で、亀が 100 m 先から出発する。アキレスが亀のいた場所に着くまでの時間は 10 秒、1 秒、0.1 秒と、毎回 になる。全部足すと 秒で、無限にある段を、有限の時間で走り終える。差が毎秒 9 m ずつ縮むと考えて 秒と計算しても同じ答えになる。ゼノンの議論は段の数が無限であることを示しただけで、かかる時間が無限であることは示していなかった。
応用
0.999… = 1。 循環小数 は で、初項 ・公比 の等比級数である。和は になる。
薬の飲み続け。 半減期 12 時間の薬を、12 時間おきに 100 mg ずつ飲む。次に飲む直前には前の分が半分残っているので、飲んだ直後の体内の量は に近づき、上限は 200 mg である。5 回目を飲んだ直後には mg で、上限の 97% に達する。半減期の 4〜5 倍の時間で血中の濃度がほぼ一定になる、という薬理学の目安はこの計算から来る。
永久に続く年金の値打ち。 毎年 1 万円をいつまでも受け取れる権利の今の価値は、金利 5% で割り引くと 万円になる。無限に受け取っても、今の価値は有限である。住宅ローンの毎月の返済額も、有限の等比数列の和の式から計算される。
はね続けるボール。 高さ 2 m から落としたボールが、毎回前の 60% の高さまではね返るとする。上下に動く道のりの合計は m である。はねる時間は高さの平方根に比例するので、1 回ごとに 倍になり、これも等比級数になる。計算すると、ボールは無限回はねるのに、約 5.0 秒で止まる。ゼノンの競走と同じ構造が、床の上で起きている。
図示
シミュレーション
「アキレスと亀」では、アキレスが亀のいた場所まで走るごとに一度止まる。ゼノンの数え方では、段ごとに同じ間だけ止まるので、いつまでも追いつかないように見える。「時計の時間」を入れると、同じ競走を実際の時間で走らせ、 の時刻に追い越す。「帯」では、 の長さの帯を順に継ぎ足し、和が破線の に近づく様子を見る。
広がる学問
- 数学 等比級数は、級数が収束するかを調べる比較の基準になる。べき級数 が収束する範囲も、等比級数と比べて求める。
- 哲学 ゼノンの議論は、無限に分けられるものを有限の時間で通り抜けられるのか、という問いとして 2400 年あまり論じられてきた。級数の収束で和は説明できても、無限個の動作を終えることの意味については、今も哲学者の間で議論がある。
- 経済学 消費者が所得の割合 を使うとき、最初の支出が経済全体で何倍の需要を生むかを表す乗数は になる。永久債や株式の理論価格も、将来の受け取りを割り引いた等比級数の和として計算する。
- 医学 薬を一定の間隔で飲み続けたときの体内の量の上限と、そこに近づく速さは、等比級数で見積もる。投与の量と間隔を決める薬物動態学の基本の計算である。
参考文献
- アリストテレス『自然学』第 6 巻 第 9 章(239b)(内山勝利 訳『アリストテレス全集 4』岩波書店、2017)
- ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第 9 巻 25-29 節(加来彰俊 訳、岩波文庫)
- Nicholas Huggett, "Zeno's Paradoxes", Stanford Encyclopedia of Philosophy (2019).
- T. L. Heath (ed.), The Works of Archimedes (Cambridge University Press, 1897), "Quadrature of the Parabola".
- Gay Robins and Charles Shute, The Rhind Mathematical Papyrus: An Ancient Egyptian Text (British Museum Publications, 1987).
- Augustin-Louis Cauchy, Cours d'analyse de l'École royale polytechnique (Paris, 1821).