宮廷の代数
こんな話が、数学の本や講演で繰り返し語られてきた。
1773 年、無神論者として知られたフランスの哲学者ドゥニ・ディドロが、女帝エカチェリーナ 2 世に招かれてサンクトペテルブルクの宮廷に滞在していた。ディドロの無神論に困った宮廷の人々は、一計を案じた。数学者が神の存在を代数で証明してみせる、とディドロに伝えたのである。宮廷が見守る中、数学者はディドロに歩み寄り、重々しく言った。「ムッシュー、、ゆえに神は存在する。お答えを」。代数を知らないディドロは言葉に詰まり、笑い声の中で恥をかき、まもなくフランスへ帰った。
いまの語り直しの中には、数学者をオイラー、式を にしたものもある。だが、出典をたどると話は変わる。
この話を最初に書いたのは、フリードリヒ大王のもとでベルリンに 20 年暮らしたフランス人ディユドネ・ティエボーの回想録『ベルリン滞在 20 年の思い出』(1804)である。ティエボー自身、本当かどうかは知らないが北ヨーロッパ中で信じられている、と断っている。数学者の名前も書いていない。
名前を足したのは、イギリスの数学者オーガスタス・ド・モルガンである。没後の 1872 年に出た『パラドックスの予算』で、この話を紹介し、「数学者の名は書かれていないが、それはオイラーであった」と付け加えた。その後、E. T. ベルの『数学をつくった人びと』(1937)などを通じて、オイラーの逸話として広まった。
1940 年代から 50 年代にかけて、ブラウン(1942)やギリングス(1954)がこの話を調べ直した。ディドロは数学を知らなかったどころか、1748 年に数学の論文集『数学のさまざまな主題についての覚え書き』を出しており、代数の式に戸惑うはずがない。ディドロが 1773 年から翌年にかけてサンクトペテルブルクにいたこと、オイラーが同じ町にいたことは事実である。しかし 2 人のこの対面を記録した当時の資料は見つかっていない。今では作り話とみなされている。
そもそも元の話の式 は、意味の無いでたらめな式で、オイラーの等式ではない。2 つが重なったのは、ずっと後の語り直しの中である。
起源
この等式そのものを、オイラーが書いた記録は見つかっていない。
オイラーは 1748 年の『無限解析序説』で、どの角 についても が成り立つことを示した(オイラーの公式)。ここに を入れれば等式はすぐ出る。また 1751 年の論文では、負の数の対数を論じて が などの虚数になることを示しており、中身は知っていた。ただ、 の形でオイラーの著作に現れる箇所は無い。数学者ロビン・ウィルソンは、オイラーの等式を主題にした本(2018)の中で、誰が最初にこの形で書いたかは分かっていないと書いている。
等式に並ぶ記号の多くも、オイラーが広めたものである。円周率の は 1706 年にイギリスのウィリアム・ジョーンズが使い、オイラーの著作で定着した。 は 1727 年ごろからオイラーが使い始め、 は 1777 年の論文から使った。
「美しい式」としての評判は 20 世紀に固まった。その下地の 1 つが、19 世紀のハーバード大学の数学者ベンジャミン・パースの言葉である。パースは講義でこの等式を証明したあと、学生に向かってこう言ったと伝えられる。「諸君、これは確かに正しい。まったく逆説的で、我々には理解できず、何を意味するかも分からない。だが証明したのだから、真実だと分かる」。この言葉は、カスナーとニューマンの『数学と想像力』(1940)に載っている。
1988 年、雑誌『マセマティカル・インテリジェンサー』はデヴィッド・ウェルズの呼びかけで、24 の定理の美しさを読者に点数で付けてもらった。1990 年に出た結果で、1 位はオイラーの等式だった。2014 年には、神経科学者セミール・ゼキらが 15 人の数学者に 60 の数式を見せて脳の活動を測り、美しいと感じた式ほど、絵や音楽の美しさを感じるときと同じ内側眼窩前頭皮質が強く働くことを報告した。いちばん多く「美しい」と評価されたのも、オイラーの等式だった。
証明
オイラーの公式から。 オイラーの公式 に を入れる。
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角 は半回転である。
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単位円を半周した点は にある。
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したがって
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両辺に 1 を足すと
極限から。 に を入れても、同じ結論が見える。
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複素数 を、大きさ と角 で書く。
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複素数を掛けると、大きさは掛け算、角は足し算になる。
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大きさは 1 に近づく。対数をとると だからである。
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角の合計は に近づく。 なので
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大きさ 1・角 の点は である。
小さな回転を 回つなぐと、半周して に着く。 では 、 では 、 では まで近づく。
応用
等式そのものより、「 は半回転、 は 1 回転」という中身が、さまざまな計算で使われる。
符号の反転は半回転。 波を で表すと、 を掛けることは位相を だけずらすことと同じになる。ノイズキャンセリングのヘッドホンは、マイクで拾った騒音と同じ大きさで位相が ずれた音をスピーカーから出し、2 つを打ち消し合わせる。
1 の 乗根。 の解は ()の 個で、単位円の上に正 角形の頂点として並ぶ。 のときの解の 1 つが である。高速フーリエ変換は、この 個の点の対称性を使って計算を速くする。
計算機の中の等式。 倍精度の浮動小数点数で と を計算すると、 は になるが、 は になる。計算機の は 53 桁の 2 進数で切った近似値で、本当の より約 だけ小さいからである。プログラムで を計算すると、0 ではなく が返る。
図示
シミュレーション
つまみ を変えると、 を 回掛けていく道筋が描かれる。掛けるたびに、点は少し回って少し外へ出る。 が小さいと道は大きくふくらみ、 を大きくするほど単位円の半分に沿って に着く。「自動」では、 を順に増やしながら道筋を描き直す。
広がる学問
- 数学 , , , , という、解析・代数・幾何・算術から来た 5 つの数を、足し算・掛け算・累乗を 1 回ずつ使って結ぶ。1 の 乗根や、複素数の対数が無限に多くの値を持つことの出発点にもなる。
- 物理学 波の重ね合わせでは、位相が ずれた 2 つの波は打ち消し合う。光の干渉縞の暗い線は、 の場所である。量子力学では、粒子が 2 つの道を通るときの位相の差が、観測される確率を決める。
- 心理学 数式の美しさは、主観を数える心理学と脳科学の研究の題材になった。ゼキらの実験は、抽象的な式の美しさも、絵や音楽と同じ脳の部分で感じられることを示した。
- 哲学 パースの「理解できないが証明したから真実だ」という言葉は、数学の真理は理解とは別に成り立つのか、という問いを含む。数学がなぜ自然をよく記述できるのか、という問いと並んで、数学の哲学で繰り返し取り上げられる。
参考文献
- Dieudonné Thiébault, Mes souvenirs de vingt ans de séjour à Berlin (Paris, 1804).
- Augustus De Morgan, A Budget of Paradoxes (London, 1872).
- R. J. Gillings, "The So-Called Euler-Diderot Incident", American Mathematical Monthly 61 (1954), 77-80.
- Edward Kasner and James Newman, Mathematics and the Imagination (Simon and Schuster, 1940), 103-104.
- David Wells, "Are These the Most Beautiful?", The Mathematical Intelligencer 12 (1990), 37-41.
- Semir Zeki, John Paul Romaya, Dionigi M. T. Benincasa, Michael F. Atiyah, "The experience of mathematical beauty and its neural correlates", Frontiers in Human Neuroscience 8 (2014), 68.
- Robin Wilson, Euler's Pioneering Equation: The Most Beautiful Theorem in Mathematics (Oxford University Press, 2018).