百万ドルの問題
2000 年 5 月 24 日、パリのコレージュ・ド・フランスで、アメリカのクレイ数学研究所が 7 つの問題を発表した。解いた人に 1 問あたり 100 万ドルを贈る「ミレニアム懸賞問題」である。1900 年にダフィット・ヒルベルトが、同じパリの国際数学者会議で 23 の問題を示してから 100 年目にあたる。ナビエ・ストークス方程式はその 1 つに選ばれ、公式の問題文はプリンストン大学のチャールズ・フェファーマンが書いた。
懸賞の対象は、この式を解く公式を見つけることではない。問われているのは、解がいつまでもなめらかに続くかどうかである。問題文は 4 つの主張を並べ、どれか 1 つを示せば解決とする。
- A・B 空間全体(A)または周期的な箱(B)で、なめらかな初めの流れ(空間全体では遠くで十分速く 0 になるもの)を与え、外からの力を加えないとき、なめらかな解がいつまでも存在することを証明する。空間全体では、運動エネルギーが有限のままであることも求める。
- C・D 同じ空間で、なめらかな初めの流れと、なめらかな外からの力をうまく選ぶと、そのような解が存在しなくなる例を示す。
賞金を受けるには、解答が査読のある雑誌に載り、その後 2 年たっても数学者の間で広く認められている必要がある。7 問のうち解決が認められたのはポアンカレ予想だけで、解いたグリゴリー・ペレルマンは 2010 年に賞金を辞退した。
2026 年 9 月 8 日、OpenAI は、問題文の C と D を示したとする論文を公開した。論文の定理は、どの粘性の値でも、止まった状態から始めて、限られた場所と時間だけに働くなめらかな力を外から加えると、運動エネルギーは有限のまま、有限の時間で速さが限りなく大きくなる 3 次元の流れがある、というものである。証明は同社の内部の AI のモデルで動く 1 万ほどのエージェントが作り、証明を機械で検査する言語 Lean でも書いた、と同社は説明している。OpenAI は賞金を請求しないとしている。クレイ数学研究所は 9 月 11 日の声明で、問題が「解決されたらしい」という発表を受け止めていると述べ、規則に沿った評価は急がずに進めるとした。10 月には、Lean で書いた証明が文章の証明を正しく写していないと論じる論文も出ており、数学者による検証は続いている。外からの力を加えない A と B の場合に、なめらかな解がいつまでも続くかどうかは、この記事の時点(2026 年 10 月)で分かっていない。
起源
1757 年、レオンハルト・オイラーは、粘り気の無い流体の運動方程式を書いた。いまオイラー方程式と呼ばれる式である。しかし現実の水や空気には粘り気(粘性)があり、管を流れる水は壁に近いほど遅くなる。オイラーの式では、この遅れを説明できなかった。
1822 年、フランスの技術者クロード・ルイ・ナビエは、流体の分子どうしが及ぼし合う力を考えて、粘性の項を加えた式を科学アカデミーで発表した。論文が刊行されたのは 1827 年である。同じころ、オーギュスタン・ルイ・コーシー、シメオン・ドニ・ポアソン、アデマール・バレ・ド・サン・ブナンも、それぞれ別の考え方で同じ形の式に行き着いた。
1845 年、ケンブリッジのジョージ・ガブリエル・ストークスは、分子の仮定を使わずに、流体の中の力が変形の速さに比例するという仮定だけから同じ式を導いた。ストークスは 1851 年、この式を遅い流れの中の球に当てはめ、球が受ける抵抗が ( は半径、 は速さ)になることを示した。この式は、ロバート・ミリカンが 1910 年前後に油滴の落ちる速さから電子の電荷を測った実験で、油滴の大きさを決めるのに使われた。
1883 年、マンチェスターのオズボーン・レイノルズは、ガラス管の中の水に色素を流し、流れが乱れるかどうかが、速さ・管の太さ・粘性を組み合わせた 1 つの数で決まることを示した。いまレイノルズ数と呼ばれる数で、およそ 2000 を超えると乱れることが多い。
数学の側では、1934 年にジャン・ルレイが、3 次元でも「弱い解」と呼ばれる広い意味の解はいつまでも存在することを証明した。ただし、その解がなめらかなままか、ただ 1 つに決まるかは分からないまま残った。1982 年には、カファレリ、コーン、ニーレンバーグが、もしなめらかさが崩れる点があっても、それはごくわずかな集合にしかならないことを示した。
式の導出と、証明の難しさ
式を導くのは、流体の小さな塊にニュートンの運動方程式を当てはめることである。難しいのは、導いた式の解がいつまでも続くかどうかのほうである。密度 が一定の流体を考える。
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質量の保存。密度が変わらない流体では、小さな箱に入る量と出る量が等しい。
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流体の塊は流れに乗って動く。塊の加速度は、その場での変化と、移動して場所が変わることによる変化の和になる。
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塊に運動方程式を当てはめる。 は塊の面にかかる力(応力)、 は重力などの外からの力。
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水や空気のような流体では、応力は圧力と、ずれの速さに比例する粘性の力の和である。比例の係数 が粘性係数。
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発散をとる。1 より なので、粘性の項は だけが残る。
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3 に入れると、ナビエ・ストークス方程式になる。
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外からの力が無いとき、6 の両辺と の内積をとって空間全体で積分する。圧力の項と の項は 1 によって消え、運動エネルギーは粘性で減り続ける()。
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解 を縮めた も同じ式の解になる。3 次元では、そのエネルギーは 倍になる。
8 は、小さな場所に速い流れが集まっても、全体のエネルギーはほとんど増えないことを意味する。7 で分かるのはエネルギーが増えないことだけなので、それだけでは、流れが 1 点に縮んで速さが限りなく大きくなるのを止められない。2 次元では指数が になり、エネルギーは縮めても変わらない。このため 2 次元では、なめらかな解がいつまでも続くことが証明されている。2016 年、テレンス・タオは、非線形の項を平均した形に変えた似た式では、有限の時間で解が爆発することを示した。エネルギーの性質だけを使う証明では足りない、ということである。3 次元で外からの力が無い場合の完全な証明は、まだ誰も持っていない。
一方、式そのものの正しさは実験で確かめられてきた。細い管の流れの厳密な解(ハーゲン・ポアズイユの式)は、1840 年前後のハーゲンとポアズイユの測定と合い、ストークスの抵抗の式は霧や油滴の落ちる速さと合う。いまでは風洞の測定と計算機の解が、翼のまわりの圧力の分布まで比べられている。
応用
細い管の流れ。 半径 、長さ の管に圧力の差 をかけると、遅い流れでは 6 から、流量が になる。半径 1 mm、長さ 1 m の管で、水( Pa·s)に 1000 Pa(水の高さでおよそ 10 cm)の差をかけると、、つまり毎秒約 0.39 mL である。平均の速さは毎秒約 0.125 m で、レイノルズ数は約 250 になり、流れは乱れない。半径が半分になると流量は 16 分の 1 になる。血管が少し細くなるだけで血の流れが大きく減るのは、この 4 乗のためである。
レイノルズ数で見る世界。 慣性の力と粘性の力の比 が、流れの性格を決める。速さ 250 m/s、翼の幅 5 m の旅客機では、空気の として になる。水の中を毎秒 30 µm で泳ぐ長さ 2 µm の細菌では である。細菌にとって水は蜂蜜よりも粘っこく、こぐのをやめるとすぐに止まる。物理学者エドワード・パーセルが 1974 年の講演「低いレイノルズ数の生命」で描いた世界である。
天気予報と設計。 気象庁の数値予報は、大気を格子に分け、この式を基にした方程式を計算機で解いて明日の風と雨を出す。自動車や航空機の形も、風洞の実験の前に、計算機で流れを解いて絞り込む。
図示
粘性の項 は、となりより速い流体を遅くし、遅い流体を速くする。壁の止まった流体の遅れが、粘性によって中心へ伝わる。
シミュレーション
左から一様な流れが来て、円柱を過ぎる。つまみでレイノルズ数 を変えると、小さいうちは円柱の後ろに 2 つの渦が止まって並び、40 から 50 を超えると渦が左右交互にはがれていく(カルマン渦列)。画面をなぞると、流れを指で押せる。計算は格子ボルツマン法で行う。格子の上の粒子の分布を動かす方法で、遅い流れではナビエ・ストークス方程式の解に近づく。
広がる学問
- 物理学 乱流は、古典物理学に残る大きな問題の 1 つである。1941 年のコルモゴロフの理論は、大きな渦が小さな渦へエネルギーを渡していくと考え、エネルギーの分布が波数の 乗になることを導く。水の中の小さな粒がブラウン運動で広がる速さ(拡散係数)は、ストークスの抵抗の式で決まる。
- 工学 航空機・自動車・船・配管・空調の設計は、流れの計算(数値流体力学)と風洞の実験を組み合わせて行う。
- 地球科学 天気予報・海流・気候の計算は、地球の回転を入れたこの式を出発点にする。1963 年にローレンツが見つけたカオスも、空気の対流の式を大きく簡単にしたものだった。
- 医学 血管の狭くなった所の流れ、人工の心臓弁や血液ポンプの設計に使われる。
- 数学 ルレイの弱い解の考え方は、偏微分方程式の研究全体に広がった。3 次元の解のなめらかさはミレニアム懸賞問題になった。2026 年に、外から力を加えた場合に解が破綻するという証明が発表され、検証が続いている。
参考文献
- C.-L. Navier, "Mémoire sur les lois du mouvement des fluides", Mémoires de l'Académie Royale des Sciences de l'Institut de France 6 (1827), 389-440.
- G. G. Stokes, "On the Theories of the Internal Friction of Fluids in Motion, and of the Equilibrium and Motion of Elastic Solids", Transactions of the Cambridge Philosophical Society 8 (1845), 287-319.
- O. Reynolds, "An Experimental Investigation of the Circumstances Which Determine Whether the Motion of Water Shall Be Direct or Sinuous, and of the Law of Resistance in Parallel Channels", Philosophical Transactions of the Royal Society of London 174 (1883), 935-982.
- J. Leray, "Sur le mouvement d'un liquide visqueux emplissant l'espace", Acta Mathematica 63 (1934), 193-248.
- C. L. Fefferman, "Existence and Smoothness of the Navier-Stokes Equation", Clay Mathematics Institute(ミレニアム懸賞問題の公式の問題文), 2000.
- T. Tao, "Finite time blowup for an averaged three-dimensional Navier-Stokes equation", Journal of the American Mathematical Society 29 (2016), 601-674.
- OpenAI, "Finite time blowup for Navier-Stokes"(論文)と "On the Navier-Stokes Millennium Prize Problem"(発表), 2026 年 9 月 8 日. あわせて Clay Mathematics Institute, "Navier-Stokes Announcement", 2026 年 9 月 11 日.