花粉の粒とスフィンクスのかけら
1827 年の夏、ロンドンの植物学者ロバート・ブラウンは、北アメリカ原産の草花クラーキア・プルケラの花粉を水に浸し、顕微鏡でのぞいていた。花粉の粒から出てきた細かい粒が、止まることなく小刻みに動いていた。水の流れでも、蒸発でもなかった。
翌 1828 年、ブラウンは観察を小冊子にまとめた。題は『1827 年の 6 月・7 月・8 月に行った、植物の花粉に含まれる粒についての顕微鏡観察の短い報告』である。題のとおり、動いていたのは花粉そのものではなく、花粉の中に入っていた小さな粒だった。
ブラウンは最初、生き物の命に関わる動きではないかと考えた。そこで、標本室で長く乾かしてあった植物、ガラスの粉、さまざまな岩石の粉を水に入れて調べた。どれも同じように動いた。報告には、花崗岩を作る鉱物の 1 つ 1 つからも粒が見つかり、調べた岩石の中には「スフィンクスのかけら」もあった、と書かれている。動きは命とは関係が無い。では何が動かしているのか。ブラウンはその答えを出さなかった。
この観察は、もっと古い話と結びつけて語られることがある。紀元前 1 世紀のローマの詩人ルクレティウスは『事物の本性について』で、日の光の中で舞う塵を、目に見えない粒がぶつかり合う証拠として描いた。ただし、日の光の中で塵が大きく動くのは、ほとんどが空気の流れのためである。ブラウン運動の先取りとしてよく引かれるが、見ていたものは別である。
1991 年には、ブラウンの顕微鏡でこの動きが本当に見えたのか、という疑問が出された。翌 1992 年、イギリスの顕微鏡研究家ブライアン・フォードは、ブラウンが使ったような 1 枚レンズの顕微鏡で観察をやり直し、ブラウン運動が見分けられることを映像で示した。2010 年にはフィリップ・パールらが、ブラウンが見たものを細かく検討した論文を出している。
起源
ブラウンの後の 70 年余り、この動きは原因の分からない現象として残った。19 世紀の終わりには、液体の分子が粒にぶつかるためだという考えも出ていたが、量として確かめる方法が無かった。そもそも分子が本当にあるのかどうかで、学者の意見が分かれていた。エルンスト・マッハやヴィルヘルム・オストヴァルトは、見えない原子を前提にすることに慎重だった。
1900 年、パリのルイ・バシュリエは、学位論文『投機の理論』で、株価の変動を偶然の積み重ねとして扱い、のちにブラウン運動と同じものになる数学を書いた。指導したのはアンリ・ポアンカレである。この仕事は 1950 年代まで、ほとんど知られなかった。
1905 年 5 月、ベルンの特許局に勤めていた 26 歳のアルベルト・アインシュタインは、液体に浮かぶ粒の運動を分子運動論から論じた論文を『アナーレン・デア・フィジーク』に送った。粒の位置のずれの 2 乗の平均は時間に比例し、その比例の係数を測ればアボガドロ数が求まる、という内容である。論文の冒頭で彼は、ここで扱う運動はいわゆるブラウン運動と同じものかもしれないが、手に入る情報が不正確なので判断できない、と書いている。同じ年にオーストラリアのウィリアム・サザーランドが、翌 1906 年にはポーランドのマリアン・スモルコフスキーが、それぞれ独立に同じ種類の結論に達した。
1908 年から 1909 年にかけて、パリのジャン・ペランは、樹脂のガンボージから大きさのそろった粒を作って水に浮かべ、高さごとの粒の数と、一定時間ごとの位置のずれを顕微鏡で測った。どちらからも、アボガドロ数として から ほどの値が出て、ほかの方法で求めた値とも合った。分子の実在を疑っていたオストヴァルトも、このころ考えを改めた。ペランは 1926 年にノーベル物理学賞を受けた。
数学では、1923 年にノーバート・ウィーナーが、ブラウン運動の道筋を厳密な確率の対象として組み立てた。その道筋はどこでも切れずにつながっているのに、どこでも微分できない。
導出
アインシュタインの道筋を 2 つに分けて示す。前半で「ずれの 2 乗の平均が時間に比例する」ことを、後半で「比例の係数が温度・粘性・粒の大きさで決まる」ことを示す。
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粒は時間 ごとに、右か左へ同じ確率で だけ動くとする()。
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2 乗して平均をとる。 はそれまでの位置と無関係で平均は 0、また である。
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から 回くり返す。
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とおき、(拡散係数)と書く。
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次に を決める。粒に一定の力 (たとえば重力)がかかると、粒は液体の抵抗を受けて一定の速さで流される。抵抗の係数は、ナビエ・ストークス方程式から出るストークスの式の ( は粘性係数、 は粒の半径)である。
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釣り合った状態では、力で流される粒の流れと、濃い所から薄い所へ広がる拡散の流れが打ち消し合う( は粒の濃さ)。
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熱の釣り合いでは、粒の濃さはボルツマン分布 に従う。 なので
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6 と 7 から と が消え、拡散係数が決まる。
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4 に入れる。 と書けば、ずれを測ってアボガドロ数 が求まる。
これは 1 つの方向の式で、平面では 、空間では になる。ずれの分布は平均 0、分散 の正規分布に近づく。ペランは、粒の大きさ・液体の粘性・温度を変えても、9 から出るアボガドロ数が同じになることを確かめた。式が測定の前に数を予言し、測定がそれに合ったことが、分子の実在の証拠になった。
応用
どれだけ動くか。 半径 0.5 µm の粒を 20 °C の水( Pa·s、 K)に浮かべると、 になる。1 つの方向のずれの大きさ は、1 秒で約 0.93 µm、1 分で約 7.2 µm、1 時間で約 56 µm である。ずれは時間の平方根でしか増えないので、1 mm 動くには 秒、およそ 2 週間かかる。
拡散で届く距離。 細胞の中や細胞のすき間では、分子は主に拡散で動く。距離が 10 倍になると、かかる時間は 100 倍になる。数 µm の細胞の中なら拡散で間に合うが、体の端から端まで物を運ぶには、血管と心臓のような流れの仕組みが要る。
粒の大きさを測る。 液体にレーザーを当て、粒に散らされた光のちらつきの速さから を求めると、8 を逆に使って粒の半径が分かる。動的光散乱と呼ばれる方法で、ナノ粒子・たんぱく質・ワクチンの脂質ナノ粒子の大きさの検査に使われている。
株価のゆらぎ。 バシュリエの考えは、1970 年代に、株価の対数がブラウン運動のように動くとするブラック・ショールズ方程式へつながった。オプションの値段の計算は、いまもこの形を基準にしている。
図示
どの道筋も、拡大するとまたぎざぎざが現れる。速さ(傾き)が決まらないことが、ウィーナーが示した「どこでも微分できない」の意味である。
シミュレーション
中心から放した 300 個の粒が、水の分子に押されて広がる。実線の円は粒の位置の 2 乗の平均から求めた半径、破線は理論の である。グラフでは、 が時間に比例して伸びる。つまみで温度と粒の半径を変えると、 に従って広がる速さが変わる。水の粘性は温度で変わるので、温めると粒はさらに速く広がる。「1 粒の道筋」を出すと、1 つの粒のぎざぎざの道筋をたどれる。
広がる学問
- 物理学 粒をゆらす力と、粒の動きを止める抵抗は、同じ分子の衝突から生まれる。8 はその最初の例で、のちに揺動散逸定理として一般化された。電気抵抗の中の熱による雑音(ジョンソン・ナイキスト雑音)も同じ仕組みである。
- 化学 溶液の中の反応の速さは、分子が出会うまでの拡散で決まることがある。粒の大きさの測定にも使われる。
- 生物学 細胞の中のたんぱく質の動き、神経の情報を伝える物質の移動、分子モーターの働きは、熱のゆらぎの中で起きる。1 個の分子を光らせて追跡する実験では、その動きが拡散かどうかを と時間の関係で見分ける。
- 経済学 株価や為替の変動の基本の模型になった。バシュリエの論文は、アインシュタインより 5 年早かった。
- 数学 ウィーナー過程は確率論の中心の対象である。伊藤清は 1940 年代に、ブラウン運動を使った積分(伊藤積分)を作り、偶然を含む微分方程式の分野を開いた。
参考文献
- R. Brown, "A brief account of microscopical observations made in the months of June, July and August, 1827, on the particles contained in the pollen of plants; and on the general existence of active molecules in organic and inorganic bodies", Philosophical Magazine 4 (1828), 161-173.
- A. Einstein, "Über die von der molekularkinetischen Theorie der Wärme geforderte Bewegung von in ruhenden Flüssigkeiten suspendierten Teilchen", Annalen der Physik 17 (1905), 549-560.
- M. von Smoluchowski, "Zur kinetischen Theorie der Brownschen Molekularbewegung und der Suspensionen", Annalen der Physik 21 (1906), 756-780.
- J. Perrin, "Mouvement brownien et réalité moléculaire", Annales de Chimie et de Physique 18 (1909), 5-114.
- L. Bachelier, "Théorie de la spéculation", Annales scientifiques de l'École Normale Supérieure 17 (1900), 21-86.
- P. Pearle et al., "What Brown saw and you can too", American Journal of Physics 78 (2010), 1278-1289.