ボルツマンのエントロピー

Boltzmann's entropy formula

墓石には、名前の上に 1 行の式だけが刻まれている。

乱雑さの量エントロピーを、目に見えない分子の並び方の数の対数として表す式。熱力学の第二法則に、確率という意味を与えた。

年代
1877年
人物
ルートヴィッヒ・ボルツマン、マックス・プランク、ルドルフ・クラウジウス、ヨハン・ロシュミット、ジャン・ペラン
逸話

墓に刻まれた式

ウィーン中央墓地の名誉墓の区画に、1 人の学者の胸像がある。オーストリアの物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンの墓である。胸像の上の石には、名前でも言葉でもなく、式が 1 行だけ刻まれている。

S = k·log W

1906 年 9 月 5 日、ボルツマンは、家族と夏を過ごしていたトリエステ近くのドゥイーノで、自ら命を絶った。62 歳だった。その年の 5 月には、心の病が重くなり、教授の職を辞していた。気分の浮き沈みに長く苦しんでいたことが知られている。何が最後の一歩になったのかは、分からない。

ボルツマンの生涯は、原子をめぐる論争と重なっていた。物質は目に見えない原子や分子でできていて、熱や圧力はその運動から生まれる。これがボルツマンの立場である。一方、物理学者エルンスト・マッハや化学者ヴィルヘルム・オストヴァルトは、見えないものを仮定する理論に強く反対した。1895 年のリューベックの学会では、オストヴァルトらの「エネルギー論」とボルツマンが正面から論じ合った。

原子の実在を疑う人がほとんどいなくなったのは、ボルツマンの死の後である。1905 年のアインシュタインのブラウン運動の理論と、1908 年からのジャン・ペランの実験が、分子の大きさと数を測ってみせた。

墓の式にはもう 1 つ、事情がある。この形で式を書いたのは、ボルツマン本人ではない。1900 年から翌年にかけて、熱放射の研究の中でこの形に書き、定数 を導入したのはマックス・プランクである。プランクは 1920 年のノーベル賞の講演で、この定数はボルツマン定数と呼ばれることが多いが、自分の知るかぎりボルツマン自身はこれを導入していない、と述べている。

起源

エントロピーという言葉は、ドイツのルドルフ・クラウジウスが 1865 年に作った。熱 を温度 で割った量 として定義し、熱が自然には低い温度から高い温度へ流れないことを「世界のエントロピーは最大に向かう」と言い表した。熱力学の第二法則である。この定義は、分子のことを何も知らなくても使える。

ボルツマンは、これを分子の運動から説明しようとした。1872 年には、気体の分子の速さの分布の変化を表す方程式を作り、ある量 が時間とともに必ず減ることを示した(H 定理)。

1876 年、ウィーン大学のヨハン・ロシュミットが疑問を出した。ボルツマンの若いころからの師であり、友人でもあった人である。分子の運動はニュートンの力学に従う。すべての分子の速度をいっせいに逆向きにすれば、運動は過去へさかのぼり、 は増えるはずである。時間を逆にしても成り立つ力学から、一方向にしか進まない法則がどうして出てくるのか。

ボルツマンは 1877 年の論文「熱の力学的理論の第二法則と確率計算の関係について」で答えた。気体の目に見える状態(マクロな状態)は、分子 1 個 1 個の位置と速さの組み合わせ(ミクロな状態)の、とてつもなく多くの並び方で実現される。エントロピーが大きい状態とは、それを実現する並び方の数が多い状態のことで、エントロピーは並び方の数の対数に比例する。逆向きの運動も起こりうるが、並び方の数が圧倒的に少ないので、実際には見られない。第二法則は、絶対の法則ではなく、確率の法則だというのである。

並び方の数 は、ドイツ語の「確からしさ(Wahrscheinlichkeit)」の頭文字である。2019 年からは、ボルツマン定数は J/K と、定義された値になっている。

証明

まず、なぜ対数なのかを示す。

  1. 互いに影響しない 2 つの系 A、B があり、並び方の数がそれぞれ 、 とする。2 つを合わせた系の並び方は、組み合わせの数なので

  2. エントロピーは、熱力学では足し算できる量(示量変数)である。

  3. が の関数 なら、1 と 2 から

  4. かけ算を足し算に変える連続な増加関数は対数だけなので( は定数)

次に、熱力学のエントロピーと一致することを、気体の膨張で確かめる。

  1. 個の分子の気体が、温度を保ったまま体積 から に広がる。分子 1 個がいられる場所は 2 倍になるので、並び方の数は 倍になる。

  2. したがってエントロピーの増え方は

  3. 熱力学では、温度 を保って理想気体をゆっくり膨らませるとき、吸う熱は なので

なので、6 と 7 は一致する。比例の定数 は、気体定数 をアボガドロ定数で割った値、ボルツマン定数である。ここでの は自然対数である。

応用

混ざると戻らない理由。 異なる気体を 1 mol ずつ、仕切りの左右に入れて仕切りを外すと、それぞれの分子がいられる体積が 2 倍になる。エントロピーは J/K 増える。分子が自然に元の左右に分かれる並び方は、全体の にすぎない。 は なので、宇宙の年齢の間待っても起こらない。

氷に残るエントロピー。 熱力学の第三法則では、絶対零度でエントロピーは 0 になる。ところが氷には、冷やしても約 3.4 J/(mol·K) のエントロピーが残ることが測られた。1935 年、ライナス・ポーリングは、氷の中の水素原子の位置に、規則を守ったまま 1 分子あたり約 3/2 通りの選び方が残ると考え、 J/(mol·K) と計算して、測った値と合わせた。

情報を消すコスト。 1961 年、ロルフ・ランダウアーは、コンピュータで 1 ビットの情報を消すと、少なくとも の熱が出ることを示した。室温(300 K)では J である。2012 年には、小さな粒を使った実験でこの値が確かめられた。

ゴムが縮む力。 ゴムの分子は長い鎖で、伸ばすと鎖がそろい、並び方の数が減る。ゴムが縮もうとする力の大部分は、エントロピーを増やそうとする向きの力である。輪ゴムをすばやく伸ばして唇に当てると温かく感じるのは、このためである。

図示

4 個の分子を左右の部屋に分ける並び方。左右 2 個ずつの状態が 6 通りでいちばん多い。W はその状態を実現する並び方の数である。
分子の数 N が増えると、左の部屋にいる割合の分布は、ちょうど半分の所に鋭くとがる。分子が多いほど、半分ずつ以外の状態はほとんど見られなくなる。

シミュレーション

はじめ、分子はすべて左の部屋に集められる。仕切りが開くと、分子は右へ広がり、左にいる数 はほぼ半分で揺れ続ける。下のグラフは の変化で、 は、 個のうち 個が左にいる並び方の数である。分子の数 を増やすほど、エントロピーは最大の値の近くに張りつき、元に戻る揺らぎは小さくなる。

広がる学問

  • 物理学 統計力学は、この式を出発点に、分子の並び方の数から温度・圧力・比熱を計算する。理想気体の状態方程式も、ここから導き直せる。
  • 化学 反応が自然に進むかどうかは、エネルギーとエントロピーの両方で決まる(ギブズの自由エネルギー)。溶けやすさや、混ぜたときの熱の出入りも、並び方の数で説明される。
  • 情報科学 シャノンが 1948 年に定義した情報量は、ボルツマンの式と同じ形をしている。シャノンの情報エントロピーは、通信や圧縮の限界を決める。
  • 天文学 ブラックホールにもエントロピーがあり、その大きさは事象の地平面の面積に比例する(ベッケンシュタイン、ホーキング)。宇宙の始まりのエントロピーがなぜ小さかったかは、時間の向きの問題として議論が続いている。
  • 生物学 タンパク質が決まった形に折りたたまれることや、細胞膜ができることには、まわりの水の分子の並び方の数の変化が大きく関わっている。

参考文献

  1. L. Boltzmann, "Über die Beziehung zwischen dem zweiten Hauptsatze der mechanischen Wärmetheorie und der Wahrscheinlichkeitsrechnung respective den Sätzen über das Wärmegleichgewicht", Wiener Berichte 76 (1877), 373-435.
  2. M. Planck, "Ueber das Gesetz der Energieverteilung im Normalspectrum", Annalen der Physik 4 (1901), 553-563.
  3. Max Planck, "The Genesis and Present State of Development of the Quantum Theory", Nobel Lecture, June 2, 1920.
  4. Carlo Cercignani, Ludwig Boltzmann: The Man Who Trusted Atoms (Oxford University Press, 1998).
  5. L. Pauling, "The Structure and Entropy of Ice and of Other Crystals with Some Randomness of Atomic Arrangement", Journal of the American Chemical Society 57 (1935), 2680-2684.
  6. R. Landauer, "Irreversibility and Heat Generation in the Computing Process", IBM Journal of Research and Development 5 (1961), 183-191.

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