墓に刻まれた式
ウィーン中央墓地の名誉墓の区画に、1 人の学者の胸像がある。オーストリアの物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンの墓である。胸像の上の石には、名前でも言葉でもなく、式が 1 行だけ刻まれている。
S = k·log W
1906 年 9 月 5 日、ボルツマンは、家族と夏を過ごしていたトリエステ近くのドゥイーノで、自ら命を絶った。62 歳だった。その年の 5 月には、心の病が重くなり、教授の職を辞していた。気分の浮き沈みに長く苦しんでいたことが知られている。何が最後の一歩になったのかは、分からない。
ボルツマンの生涯は、原子をめぐる論争と重なっていた。物質は目に見えない原子や分子でできていて、熱や圧力はその運動から生まれる。これがボルツマンの立場である。一方、物理学者エルンスト・マッハや化学者ヴィルヘルム・オストヴァルトは、見えないものを仮定する理論に強く反対した。1895 年のリューベックの学会では、オストヴァルトらの「エネルギー論」とボルツマンが正面から論じ合った。
原子の実在を疑う人がほとんどいなくなったのは、ボルツマンの死の後である。1905 年のアインシュタインのブラウン運動の理論と、1908 年からのジャン・ペランの実験が、分子の大きさと数を測ってみせた。
墓の式にはもう 1 つ、事情がある。この形で式を書いたのは、ボルツマン本人ではない。1900 年から翌年にかけて、熱放射の研究の中でこの形に書き、定数 を導入したのはマックス・プランクである。プランクは 1920 年のノーベル賞の講演で、この定数はボルツマン定数と呼ばれることが多いが、自分の知るかぎりボルツマン自身はこれを導入していない、と述べている。
起源
エントロピーという言葉は、ドイツのルドルフ・クラウジウスが 1865 年に作った。熱 を温度 で割った量 として定義し、熱が自然には低い温度から高い温度へ流れないことを「世界のエントロピーは最大に向かう」と言い表した。熱力学の第二法則である。この定義は、分子のことを何も知らなくても使える。
ボルツマンは、これを分子の運動から説明しようとした。1872 年には、気体の分子の速さの分布の変化を表す方程式を作り、ある量 が時間とともに必ず減ることを示した(H 定理)。
1876 年、ウィーン大学のヨハン・ロシュミットが疑問を出した。ボルツマンの若いころからの師であり、友人でもあった人である。分子の運動はニュートンの力学に従う。すべての分子の速度をいっせいに逆向きにすれば、運動は過去へさかのぼり、 は増えるはずである。時間を逆にしても成り立つ力学から、一方向にしか進まない法則がどうして出てくるのか。
ボルツマンは 1877 年の論文「熱の力学的理論の第二法則と確率計算の関係について」で答えた。気体の目に見える状態(マクロな状態)は、分子 1 個 1 個の位置と速さの組み合わせ(ミクロな状態)の、とてつもなく多くの並び方で実現される。エントロピーが大きい状態とは、それを実現する並び方の数が多い状態のことで、エントロピーは並び方の数の対数に比例する。逆向きの運動も起こりうるが、並び方の数が圧倒的に少ないので、実際には見られない。第二法則は、絶対の法則ではなく、確率の法則だというのである。
並び方の数 は、ドイツ語の「確からしさ(Wahrscheinlichkeit)」の頭文字である。2019 年からは、ボルツマン定数は J/K と、定義された値になっている。
証明
まず、なぜ対数なのかを示す。
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互いに影響しない 2 つの系 A、B があり、並び方の数がそれぞれ 、 とする。2 つを合わせた系の並び方は、組み合わせの数なので
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エントロピーは、熱力学では足し算できる量(示量変数)である。
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が の関数 なら、1 と 2 から
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かけ算を足し算に変える連続な増加関数は対数だけなので( は定数)
次に、熱力学のエントロピーと一致することを、気体の膨張で確かめる。
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個の分子の気体が、温度を保ったまま体積 から に広がる。分子 1 個がいられる場所は 2 倍になるので、並び方の数は 倍になる。
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したがってエントロピーの増え方は
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熱力学では、温度 を保って理想気体をゆっくり膨らませるとき、吸う熱は なので
なので、6 と 7 は一致する。比例の定数 は、気体定数 をアボガドロ定数で割った値、ボルツマン定数である。ここでの は自然対数である。
応用
混ざると戻らない理由。 異なる気体を 1 mol ずつ、仕切りの左右に入れて仕切りを外すと、それぞれの分子がいられる体積が 2 倍になる。エントロピーは J/K 増える。分子が自然に元の左右に分かれる並び方は、全体の にすぎない。 は なので、宇宙の年齢の間待っても起こらない。
氷に残るエントロピー。 熱力学の第三法則では、絶対零度でエントロピーは 0 になる。ところが氷には、冷やしても約 3.4 J/(mol·K) のエントロピーが残ることが測られた。1935 年、ライナス・ポーリングは、氷の中の水素原子の位置に、規則を守ったまま 1 分子あたり約 3/2 通りの選び方が残ると考え、 J/(mol·K) と計算して、測った値と合わせた。
情報を消すコスト。 1961 年、ロルフ・ランダウアーは、コンピュータで 1 ビットの情報を消すと、少なくとも の熱が出ることを示した。室温(300 K)では J である。2012 年には、小さな粒を使った実験でこの値が確かめられた。
ゴムが縮む力。 ゴムの分子は長い鎖で、伸ばすと鎖がそろい、並び方の数が減る。ゴムが縮もうとする力の大部分は、エントロピーを増やそうとする向きの力である。輪ゴムをすばやく伸ばして唇に当てると温かく感じるのは、このためである。
図示
シミュレーション
はじめ、分子はすべて左の部屋に集められる。仕切りが開くと、分子は右へ広がり、左にいる数 はほぼ半分で揺れ続ける。下のグラフは の変化で、 は、 個のうち 個が左にいる並び方の数である。分子の数 を増やすほど、エントロピーは最大の値の近くに張りつき、元に戻る揺らぎは小さくなる。
広がる学問
- 物理学 統計力学は、この式を出発点に、分子の並び方の数から温度・圧力・比熱を計算する。理想気体の状態方程式も、ここから導き直せる。
- 化学 反応が自然に進むかどうかは、エネルギーとエントロピーの両方で決まる(ギブズの自由エネルギー)。溶けやすさや、混ぜたときの熱の出入りも、並び方の数で説明される。
- 情報科学 シャノンが 1948 年に定義した情報量は、ボルツマンの式と同じ形をしている。シャノンの情報エントロピーは、通信や圧縮の限界を決める。
- 天文学 ブラックホールにもエントロピーがあり、その大きさは事象の地平面の面積に比例する(ベッケンシュタイン、ホーキング)。宇宙の始まりのエントロピーがなぜ小さかったかは、時間の向きの問題として議論が続いている。
- 生物学 タンパク質が決まった形に折りたたまれることや、細胞膜ができることには、まわりの水の分子の並び方の数の変化が大きく関わっている。
参考文献
- L. Boltzmann, "Über die Beziehung zwischen dem zweiten Hauptsatze der mechanischen Wärmetheorie und der Wahrscheinlichkeitsrechnung respective den Sätzen über das Wärmegleichgewicht", Wiener Berichte 76 (1877), 373-435.
- M. Planck, "Ueber das Gesetz der Energieverteilung im Normalspectrum", Annalen der Physik 4 (1901), 553-563.
- Max Planck, "The Genesis and Present State of Development of the Quantum Theory", Nobel Lecture, June 2, 1920.
- Carlo Cercignani, Ludwig Boltzmann: The Man Who Trusted Atoms (Oxford University Press, 1998).
- L. Pauling, "The Structure and Entropy of Ice and of Other Crystals with Some Randomness of Atomic Arrangement", Journal of the American Chemical Society 57 (1935), 2680-2684.
- R. Landauer, "Irreversibility and Heat Generation in the Computing Process", IBM Journal of Research and Development 5 (1961), 183-191.