4 回と 24 回
さいころを 1 個、4 回振る。6 が 1 回でも出れば勝ちである。もう 1 つの賭けでは、さいころを 2 個そろえて 24 回振り、6 のぞろ目が 1 回でも出れば勝ちとする。
2 つの賭けは釣り合っているように見える。1 個のさいころの目は 6 通りで、振るのは 4 回。2 個の目の組み合わせは 36 通りで、振るのは 24 回。4 対 6 と 24 対 36 は同じ比である。
確かめるには、負けるほうを数えるのが早い。4 回とも 6 が出ない確率は だから、勝つ確率は 、約 0.518 になる。24 回ともぞろ目が出ない確率は で、勝つ確率は約 0.491 にとどまる。1 つ目は有利で、2 つ目はわずかに不利である。
この食い違いは、1654 年 7 月 29 日にパリのブレーズ・パスカルが、トゥールーズのピエール・ド・フェルマーに宛てた手紙に出てくる。パスカルによると、シュヴァリエ・ド・メレはこの 2 つの賭けから数に誤りを見つけたと考え、命題は一定しない、算術は自己矛盾している、と声高に言っていた。手紙には、1 つ目の賭けは「671 対 625」で有利とある。パスカルはメレを、とても頭がよいが幾何学者ではない(ご存じのとおり、これは大きな欠点だ)と評した。
勝つ場合を数える。負ける場合を引く。独立な回の確率を掛け合わせる。手紙の 671 対 625 は、この 3 つの計算で出る。同じ計算は、のちに遺伝の比、熱の法則、通信の情報量、オプションの値段の式の中にも、形を変えて現れる。ここでは確率の公式 16 本を 4 つの章に分け、さいころの数字で確かめながらその道筋をたどる。最後に、同じ計算が分野をまたいで通じる理由を、1933 年のコルモゴロフの公理から考える。
賭けと数え上げ
パスカルとフェルマーの計算の土台は、まだ終わっていない勝負を、この先起こりうる場合に分けて数えることだった。
2 人が 1654 年に交わした手紙は、『フェルマー全集』第 2 巻(1894 年)に 7 通が載っている。最初の 1 通はフェルマーからの日付の無い手紙で、見つかっていないパスカルの手紙への返事とみられている。中心の問いは、途中で打ち切った勝負の賭け金をどう分けるか(分配問題)だった。
2 人の解き方は違った。パスカルは、勝負の終わりから逆にたどって取り分を決めた。先に 3 勝したほうが 64 ピストルを取る勝負を 2 勝 1 敗で止めたなら、次の 1 回に勝てば 64、負ければ 2 勝 2 敗の五分で 32 になるので、その平均の 48 を受け取る。残りの回数が多いときは、数を三角形に並べた表で場合を数えた(二項定理とパスカルの三角形)。フェルマーは、勝負を決まった回数まで続けたことにして、勝ち負けの並びをすべて書き出した。9 月 25 日の手紙では、1 人はあと 1 勝、ほかの 2 人はあと 2 勝で終わる 3 人の勝負を 3 回まで延ばし、27 通りの並びを 17 対 5 対 5 に分けている。10 月 27 日、パスカルは「あなたの方法はまったくあなたのもので、私の方法と共通するところは何も無いのに、同じところへたやすく着く」と返した。
1657 年には、オランダのクリスティアーン・ホイヘンスの小論「さいころ遊びの計算について」が、ライデンで出たファン・スホーテンの『数学演習』に付録として載った。確率の計算を扱った最初の印刷物とされる。命題 10 では 1 個のさいころで 6 を出す賭けを 1 回ずつ数え進め、4 回で 671 対 625 と、パスカルの手紙と同じ比を出した。命題 11 は 2 個で 6 のぞろ目を出す賭けで、24 回ではまだわずかに不利、25 回からようやく有利になると結論した。25 回なら、勝つ確率は約 0.506 になる。
メレの 2 つの賭けは、どちらも、1 回で当たる確率が のくじを 回引き、1 回でも当たる確率 を求める問題である。 が小さいと、これは に近い。 は 2 つとも なので、メレの比の議論は「 が同じなら勝つ確率も同じ」と見たことにあたる。実際には、 の小さいぞろ目の賭けのほうが に近く、1 個の賭けの 0.518 はそこから離れている。ここに出る はネイピア数である。 が 1 つの数として初めて問われたのは、ヤコブ・ベルヌーイの利息の問題とされる。答えを載せた 1690 年の論文の題は「利息についてのいくつかの問いと、さいころの賭けの問題の解」で、後半は、さいころの勝負の解だった。
誕生日のパラドックスも同じ式で読める。23 人からできる 2 人の組は 253 組で、1 組の誕生日がそろう確率は である。 は とほぼ等しいので、そろう組が 1 つでもある確率は に近い。組どうしは独立ではないが、正確な値 50.7 % とよく合う。活字になった最初の記録は、1939 年のリヒャルト・フォン・ミーゼスの論文である。
1 つずつ数えられない場合を扱ったのがビュフォンの針である。博物学者ビュフォンは 1733 年、タイルの床に投げた硬貨が継ぎ目にかかるかどうかの賭けを、硬貨の中心が落ちうる場所の面積の比で計算した。場合の数の比を、面積の比に置き換えたことになる。1777 年に出た針の問題の答え には、円周率が入っている。
データから推し量る
パスカルもホイヘンスも、さいころの目が 6 分の 1 ずつ出ることを前提に、勝負の行方を計算した。次の世紀には、問いが逆向きになる。結果を見て、もとの確率を推し量るのである。
ベイズの定理の論文は、トマス・ベイズが 1761 年に亡くなったあと、遺された書類の中から友人のリチャード・プライスが見つけた。プライスは 1763 年 11 月 10 日付の手紙を添えて、王立協会のジョン・カントンに論文を送った。12 月 23 日に協会で読まれた論文は、『フィロソフィカル・トランザクションズ』第 53 巻の 370〜418 ページにある。冒頭の問題はこうである。ある出来事が起きた回数と起きなかった回数だけが分かっているとき、1 回の試行でそれが起きる確率が、指定した 2 つの値の間にある見込みを求めよ。メレの賭けに当てはめれば、さいころが正しく作られているか分からないまま、振った結果から 6 の出る確率を推し量る問いになる。
フランスのピエール=シモン・ラプラスは、ベイズの論文を知らずに 1774 年の論文で同じ考えにたどり着いた。結果から原因の確からしさを求めるその計算の中で、ガウス積分 の値を初めてはっきり求めたとされる。
同じ の形は、正規分布の曲線になる。アブラーム・ド・モアブルは 1733 年 11 月の小冊子で、硬貨を何百回も投げたときの表の数の確率を、この形の曲線で近似した。硬貨を 100 回投げて表がちょうど 50 回出る確率は で、曲線から読む値 とほとんど変わらない。カール・フリードリヒ・ガウスは 1809 年、天体の観測の誤差がこの曲線に従うと考えて、最小二乗法の根拠にした。誤差の散らばりから、いちばん確からしい本当の位置を推し量るためである。
ベンフォードの法則は、数字の並び方そのものから、データの素性を推し量る手がかりになった。サイモン・ニューカムが 1881 年に、フランク・ベンフォードが 1938 年に見つけたこの法則では、何桁にもまたがって散らばる数を集めると、先頭の数字が 1 になる確率は 、9 になる確率は である。いまは、会計のデータに不自然な所が無いかを調べるときにも使われる。
4 本とも、見えた結果の側から、見えないもの(確率・原因・本当の値・データの出どころ)へさかのぼる式である。
時間とともに動く偶然
さいころには記憶が無い。何回続けて 6 が出なくても、次の 1 回で 6 が出る確率は 6 分の 1 のままである。だから、6 が出ないまま続く確率 は、1 回ごとに同じ割合で減っていく。
この減り方は、半減期の言葉で言い直せる。 を解くと 回で、4 回振れば半分を越える。ぞろ目では 回なので、24 回では届かず、25 回で越える。メレの 2 つの賭けの有利と不利も、ホイヘンスの 25 回も、この 2 つの「半減期」で説明がつく。
放射性崩壊の式 も、同じ考えから出てくる。1902 年、アーネスト・ラザフォードとフレデリック・ソディは、崩壊の速さがそのとき残っている原子の数に比例すると結論した。1905 年にはエゴン・フォン・シュヴァイドラーが、1 つの原子がある時間の間に壊れる確率は、その原子がどれだけ長く存在してきたかに関係しない、と考えた。さいころの 1 回を短い時間 に置き換えると、 は で になる。半減期の式 に を入れれば、さいころの 3.80 回になる。
記憶のある偶然を扱うのがマルコフ連鎖である。大数の法則の証明は、1713 年のヤコブ・ベルヌーイ以来、1 回 1 回が独立であることを前提にしていた。アンドレイ・マルコフは 1906 年の論文で、次の状態が今の状態だけで決まる列でも大数の法則が成り立つと証明し、量の独立は必要条件ではない、と結んだ。1913 年には『エヴゲーニイ・オネーギン』の 2 万字を数え、母音の次に母音が来る割合を約 0.128、子音の次に母音が来る割合を約 0.663 と求めた。すぐ前の 1 文字によって、次に母音が来る割合が大きく変わる。
ブラウン運動は、小さな偶然の歩みの積み重ねである。硬貨を 100 回投げると、表の数は平均の 50 回のまわりに、標準偏差 回ほど散らばる。400 回なら 10 回で、回数を 4 倍にしても散らばりは 2 倍にしかならない。水に浮かぶ粒の位置のずれも、2 乗の平均が時間に比例する()ので、時間を 4 倍にするとずれの大きさは 2 倍になる。1900 年にルイ・バシュリエがパリの取引所の国債の値動きでこの数学を書き、1905 年にアルベルト・アインシュタインが分子の運動から同じ形を導いた。
ブラック・ショールズ方程式(1973 年)では、株価をこうした偶然の動きとみなして、オプションの値段を求める。途中で止めた勝負の取り分も、満期の前のオプションの値段も、まだ決まっていない受け取りを、いまの値に直す問いである。パスカルの 48 ピストルは、次の 1 回の 2 つの行き先 64 と 32 を半分ずつの重みで平均した値だった。ブラック・ショールズ方程式の解も、株価の平均が無リスク金利で増えるとみなした世界(リスク中立の世界)で満期の受け取りを平均し、金利の分を割り引いた形に書ける。この 2 つを並べるのはこの特集の読みで、手紙から式へ直接つながる記録があるわけではない。
自然の中の確率
自然そのものが、パスカルやフェルマーと同じように場合を数えている。そう読める式が 4 本ある。
メンデルの分離の法則は、硬貨を 2 枚投げる計算と同じである。雑種 どうしの子は、親それぞれから か を半分ずつの確率で受け取る。 で、 は の係数 1, 2, 1 に当たる。グレゴール・メンデルが 1865 年に報告した種子の形は、丸 5474 粒としわ 1850 粒で、約 2.96 対 1 だった。1936 年、ロナルド・フィッシャーは、メンデルの実験すべてを通した が自由度 84 で 41.6 しかなく、偶然にしては期待に合いすぎると指摘した。合いすぎて疑われた点は、1901 年にマリオ・ラッツァリーニが報告したビュフォンの針の実験と似ている。
ハーディー・ワインベルクの法則は、その確率を半分に限らない形である。集団の中で因子 の割合を 、 の割合を とすると、任意交配の子の割合は になる。二項定理の の場合そのものである。1908 年 1 月 13 日にヴィルヘルム・ワインベルクが講演で、7 月 10 日に G. H. ハーディーが『サイエンス』への手紙で、別々にこの関係を書いた。
ボルツマンのエントロピー の は、気体の 1 つの巨視的な状態を実現する、分子の位置と速さの並べ方(微視的な状態)の数である。フェルマーが勝ち負けの並びを書き出したように、ここでも並びを数えている。ルートヴィッヒ・ボルツマンは 1877 年の論文で、熱力学の第二法則を、並べ方の数が圧倒的に多い状態へ移っていく確率の法則として読み直した。この形に式を書き、定数 を入れたのはマックス・プランクである。
シャノンの情報エントロピー は、送る記号の予想のしにくさを測る。正しいさいころを 1 回振った目は ビット、「6 か、6 以外か」だけを知らせるなら約 0.650 ビットになる。クロード・シャノンは 1948 年の論文で、この がボルツマンの 定理の と同じ形だと記した。
メンデルとハーディー・ワインベルクの式は場合を数え、ボルツマンとシャノンの式は、その数や確率の対数をとる。
1933 年、中身を問わない公理
パスカルからラプラスまで、確率の定義の基本は場合の数の比だった。ラプラスは『確率の哲学的試論』(初版は 1814 年)で、出来事を同じくらい起こりうる場合に分け、都合のよい場合の数を、起こりうるすべての場合の数で割った比が確率の尺度だと説明した。教科書の「同様に確からしい」の考え方である。けれども、ビュフォンの針の落ちる位置や正規分布の値は、1 つずつ並べて数えられない。マルコフ連鎖やブラウン運動の道筋は、限りなく続く。
1900 年、ダフィット・ヒルベルトは、パリの国際数学者会議の講演「数学の問題」をもとにした論文に 23 の問題を並べた。その 6 番目では、すでに数学が重要な役割を担っている物理の分野を、幾何学の基礎の研究にならって公理で扱うよう求め、筆頭に確率計算と力学を挙げた。
1933 年、アンドレイ・コルモゴロフは 62 ページのドイツ語の本『確率論の基礎概念』をシュプリンガーから出した。序文によれば、ルベーグの測度と積分の理論が出たあと、集合の測度と出来事の確率、関数の積分と確率変数の期待値が似ていることが明らかになった。コルモゴロフはこの見方で、確率を次の公理の上に組み立てた(番号は本の公理の番号と別で、記号は今の書き方に直した)。
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根元事象の集まりを とし、その部分集合の族 の要素を確率事象と呼ぶ。 は集合の体で、 そのものを含む(公理 I・II)。
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各事象 に、0 以上の実数を 1 つ割り当てる。これを の確率という(公理 III)。
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起こりうるすべてを集めた事象の確率は 1 である(公理 IV)。
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共通の要素が無い 2 つの事象では、確率は足し算になる(公理 V)。
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無限に多くの事象を扱う第 2 章で、連続性の公理を足す(公理 VI)。
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3 と 4 から、余事象の確率が出る。これに第 1 章 §5 の独立の定義(独立な事象の確率は掛け算になる)を合わせると、メレの賭けの計算になる。
第 1 章の冒頭の説明には、確率論は数学の一分野として、幾何学や代数学とまったく同じように公理から組み立てられるし、そうすべきだ、という一文がある。続けてコルモゴロフは、集合の要素が何を表すかは、純粋に数学として理論を進めるうえでは重要でないと述べた。公理から組み立てた理論には、もとになった解釈のほかにも限りなく多くの解釈があり、確率という言葉と関係の無い分野にも応用が見つかる、とも記している。
この特集の 16 本で、 の要素にあたるものを挙げてみる。さいころの目、針の位置と向き、硬貨の表の数、数の先頭の数字、詩の文字、原子が壊れる時刻、水に浮かぶ粒の道筋、株価の道筋、エンドウの因子の組、気体の分子の位置と速さ、送る記号である。公理はどれにも同じ形で当てはまる。賭けの手紙の計算が遺伝や熱や通信の式にほぼそのまま現れたのは、公理が要素の中身を決めていないからだと読める。
ただし、公理が決めるのは計算の規則までで、それぞれの場面にどの確率を当てはめるかは決めない。メンデルの 2 分の 1、原子の 、ブラック・ショールズ方程式の値動きの大きさ は、観察と測定で決める。コルモゴロフも §2 で、条件を何度もくり返したとき、起きた割合 が とほとんど違わないことは実際上確かだとみてよい、という形で公理を経験に結びつけた。当てはめる値を外せば、式が正しくても答えは外れる。
23 人の部屋を何度も試す
円は 1 年の 365 日で、部屋に入った人の誕生日に点が置かれ、同じ日に 2 人目が来るとその日に線が引かれる。「部屋の人数 n」を 23 にして「部屋を次々に試す」を入れたままにすると、一致があった部屋の割合は 50 % の前後に集まっていく。n を 22 に下げると理論の値は 47.6 % で、半分を割る。ホイヘンスのぞろ目の賭けが 24 回と 25 回の間で不利から有利に変わったように、ここでは 22 人と 23 人の間が境目になる。
4 回と 25 回を自分で確かめる
この特集の式は、身の回りの次の場面で使われている。
- 検査の結果の読み方。病気の人が 100 人に 1 人の集団で、病気の人の 90 % を陽性にし、病気でない人の 95 % を陰性にする検査で陽性と出ても、病気である確率は約 15 % にとどまる(数値は例・ベイズの定理)
- ハッシュ値(データの指紋にあたる短い値)の安全性。同じハッシュ値になる 2 つのデータを探す攻撃(誕生日攻撃)は、誕生日の問題と同じ数学に従う
- 炭素 14 による年代測定と、会計のデータの点検。前者は半減期 5730 年の減り方から、後者は先頭の数字の割合から、見えない値を推し量る
読んだあとに手を動かすなら、次の順がよい。
- 電卓で を と計算し、4 回で約 0.482 と半分を割ることを確かめる。同じように が 25 回で半分を割ることを確かめ、 と から 3.80 回と 24.6 回を出す
- 公式の記事を、二項定理とパスカルの三角形、正規分布、ベイズの定理、マルコフ連鎖、ボルツマンのエントロピー、シャノンの情報エントロピーの順に読む。数える式から、推し量る式、つながる偶然、並べ方の数の対数へと進む
- 読みものでは、事故も工事もないのに、渋滞はなぜ起きるのかで確率 の減速がつくるマルコフ連鎖を、ノーベル賞と公式でブラウン運動・放射性崩壊・ブラック・ショールズ方程式の受賞の理由を読む
確率論のタグが付いた公式
下のマスは、この事典で「確率論」のタグを付けた公式を、年の順にすべて並べたものである。2026 年 10 月 25 日の時点では、上の 16 本のほかに、ドレイク方程式、ハミルトンの規則、拡散モデル、トランスフォーマーの注意機構の 4 本が入る。タグの付いた公式が増えると、ここも増える。
参考文献
- B. Pascal, P. de Fermat, 1654 年の往復書簡(書簡 LXIX〜LXXV), in Œuvres de Fermat, tome II, éd. P. Tannery, C. Henry (Gauthier-Villars, 1894), 288-314.(https://archive.org/details/oeuvresdefermat02ferm)
- C. Huygens, "De ratiociniis in ludo aleae", in F. van Schooten, Exercitationum mathematicarum libri quinque (Leiden, 1657), 命題 10・11(1714 年の W. Browne による英訳で参照。https://www.york.ac.uk/depts/maths/histstat/huygens.pdf)
- Jakob Bernoulli, "Quæstiones nonnullæ de usuris, cum solutione problematis de sorte alearum", Acta Eruditorum (1690), 219-223.
- T. Bayes, "An Essay towards solving a Problem in the Doctrine of Chances", Philosophical Transactions of the Royal Society of London 53 (1763), 370-418. https://doi.org/10.1098/rstl.1763.0053
- P.-S. Laplace, Essai philosophique sur les probabilités (Paris, 1814; Bachelier, 1840).
- D. Hilbert, "Mathematische Probleme", Nachrichten von der Gesellschaft der Wissenschaften zu Göttingen, Mathematisch-Physikalische Klasse (1900), 253-297.
- A. Kolmogoroff, Grundbegriffe der Wahrscheinlichkeitsrechnung, Ergebnisse der Mathematik und ihrer Grenzgebiete 2 (Springer, 1933). https://doi.org/10.1007/978-3-642-49888-6(英訳 Foundations of the Theory of Probability, N. Morrison 訳, Chelsea, 1950)