賭けの分け前
1654 年の夏、パリのブレーズ・パスカルとトゥールーズのピエール・ド・フェルマーの間を、何通もの手紙が行き来した。きっかけは、賭け事を好んだ貴族シュヴァリエ・ド・メレがパスカルに出した問題だったと伝えられる。
問題はこうである。2 人が同じ額を賭け、先に 3 回勝った方が全額を取る勝負をする。途中で勝負を打ち切らなければならなくなった。賭け金をどう分けるのが公平か。
この「分配問題」は 15 世紀にはすでに知られていた。1494 年、ルカ・パチョーリは『算術・幾何・比と比例の大全』で、それまでに勝った回数の比で分ければよいと書いた。しかしこの答えは、あと何回勝てば終わるかを考えに入れていない。
パスカルとフェルマーは、「この先どうなりうるか」を数えることで答えを出した。1654 年 7 月 29 日付のパスカルの手紙は、それぞれ 32 ピストルを賭け、一方が 2 勝、もう一方が 1 勝のところで打ち切る例を挙げる。次の 1 回に前者が勝てば 64 ピストルは前者のもの。負ければ 2 勝 2 敗の五分になり、32 ずつ分けるのが公平である。前者は少なくとも 32 は確実で、残る 32 は五分五分だから、その半分の 16 を足して 48 ピストルを受け取ればよい。
残り回数が多い場合を一般に解くために、パスカルは数を三角形に並べた表を使った。2 人があと 回と 回勝てば終わるとき、勝負は多くても 回で決まる。その段に並ぶ数を数えれば、どちらが勝つ場合が何通りあるかが分かる。パスカルはこの表の性質をまとめた『数三角形論』を同じ 1654 年に書いた。印刷は済んでいたが、世に出たのは没後の 1665 年である。2 人の手紙は、確率論の出発点とされている。
二項定理は、のちに物語の中にも顔を出した。コナン・ドイルの「最後の事件」(1893)で、シャーロック・ホームズは宿敵モリアーティ教授を、21 歳で二項定理についての論文を書き、それがヨーロッパ中で評判になった男だと紹介している。
起源
この三角形には、国ごとに別の名前がある。フランスや日本ではパスカルの三角形、中国では楊輝三角や賈憲三角、イランではハイヤームの三角形、イタリアではタルターリャの三角形と呼ばれる。パスカルより何百年も前から、各地で独立に使われていたからである。
インドでは、紀元前に書かれたとされるピンガラの韻律の書『チャンダス・シャーストラ』に、長い音節と短い音節の組み合わせを数える規則がある。10 世紀の注釈者ハラーユダは、この規則を「メール山の階段(メール・プラスターラ)」と呼ぶ数の三角形で説明した。
ペルシアでは、1000 年ごろにバグダードで活躍したカラジーが、三角形の作り方と の展開の規則を書いた。著作は失われたが、12 世紀のサマウアルの本に引用されて残った。
中国では、11 世紀半ばの賈憲が、高い次数の根を求める計算のためにこの三角形を使った。賈憲の本も失われたが、1261 年に楊輝が『詳解九章算法』で図を引用し、賈憲の方法だと明記した。1303 年の朱世傑『四元玉鑑』は、8 乗までの三角形を「古法七乗方図」として載せている。
ヨーロッパでは、1527 年にペトルス・アピアヌスが商業算術の本の表紙にこの三角形を描いた。パスカルの『数三角形論』は、三角形の性質を 1 つずつ証明した点で新しかった。そこで使われた「ある段で成り立てば次の段でも成り立つ」という論法は、数学的帰納法を明確に使った初期の例とされる。
1665 年ごろ、若いアイザック・ニュートンは、指数 が分数や負の数でも展開が無限級数として成り立つことに気づいた。たとえば である。ニュートンは 1676 年、王立協会のオルデンバーグを通じてライプニッツに宛てた 2 通の手紙で、この一般二項定理を説明した。
証明
二項係数を と書く。 個から 個を選ぶ選び方の数である。
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まず、パスカルの三角形の作り方(上の 2 つを足すと下になる)を確かめる。通分すると
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では で、定理は成り立つ。
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ある で成り立つとして、両辺に を掛ける。
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2 つめの和の番号を 1 つずらし、 の形にそろえる。
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同じ の係数をまとめ、手順 1 を使う(両端は )。
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よってすべての で成り立つ。
数えることで直接見ることもできる。 は 個の括弧の積で、展開した 1 つの項は、各括弧から か を 1 つずつ選んで掛けたものである。 をちょうど 個の括弧から選ぶ選び方は 通りあるので、 の係数は になる。たとえば で の係数が 3 なのは、 を 1 つめ・2 つめ・3 つめのどの括弧から取るかの 3 通りがあるからである。
応用
硬貨を 10 枚投げる。 表がちょうど 5 枚になる確率は、10 枚のうち表になる 5 枚の選び方 を、全部の出方 で割って約 24.6% である。半々になるのは、思ったほど多くない。
手早い近似。 を展開すると で、最初の 4 項だけで 1.10462 になる。正しい値は 1.1046221… である。年利 1% で 10 年預けると約 10.5% 増える、という計算が暗算でできる。
遺伝の確率。 両親がどちらも劣性の遺伝子を 1 つずつ持つ(Aa)とき、子が aa になる確率は である。子が 4 人いて、ちょうど 2 人が aa になる確率は になる。遺伝相談で家族の中の出方を考えるとき、この計算が使われる。
抜き取り検査。 不良品が 2% 混ざる部品の山から 50 個を抜き出すと、不良品が 1 つも入っていない確率は しかない。少なくとも 1 つ見つかる確率は約 64%、ちょうど 1 つの確率は である。工場の品質管理では、何個抜き出せば不良を見逃しにくいかを、この計算で決める。
図示
三角形にはほかにも数が隠れている。 段目の数を全部足すと になる。 個のものの部分集合の数である。斜めに足していくと 1, 1, 2, 3, 5, 8 とフィボナッチ数列が現れる。奇数のところだけを塗ると、段を増やすほどシェルピンスキーの三角形と呼ばれる図形に近づく。
シミュレーション
上から落ちた玉は、釘に当たるたびに右か左へ進む。右へ進む確率を とすると、 段のうち 回右へ進んで 番目の箱に入る確率は である。玉が増えるほど、箱の高さは破線の理論値に近づく。 を 0.5 からずらすと山が片側に寄る。釘の横の数は、その釘まで来る道の数で、パスカルの三角形そのものである。
広がる学問
- 数学 二項係数は、組み合わせの数え上げ・確率の二項分布・多項式の展開を結ぶ。 が大きいとき、二項分布はド・モアブルが示したように正規分布に近づく。
- 生物学 メンデルの遺伝で、雑種どうしの子の形質の分かれ方は二項分布に従う。集団の遺伝子の割合を表すハーディー・ワインベルクの法則の は、 の展開である。
- 経済学 1979 年のコックス・ロス・ルビンシュタインの二項モデルは、株価が 1 期ごとに上がるか下がるかの二択を 回繰り返すとして、オプションの価格を計算する。金融工学の入門で最初に学ぶ価格の計算法である。
- 物理学 統計力学では、 個の磁石の向きのうち 個が上を向く並べ方の数 がエントロピーを決める。でたらめに歩く粒子の位置の分布も二項分布で、ブラウン運動の理論の出発点になる。
参考文献
- Blaise Pascal, Traité du triangle arithmétique (Paris, 1665).
- Pascal and Fermat, correspondence of 1654, in Œuvres de Fermat, tome II (Paris, 1894).
- A. W. F. Edwards, Pascal's Arithmetical Triangle: The Story of a Mathematical Idea (Charles Griffin, 1987; Johns Hopkins University Press, 2002).
- 楊輝『詳解九章算法』(1261)、朱世傑『四元玉鑑』(1303)
- Victor J. Katz, A History of Mathematics: An Introduction, 3rd ed. (Addison-Wesley, 2009).
- Arthur Conan Doyle, "The Final Problem", The Strand Magazine (December 1893).