チュドノフスキーの公式

Chudnovsky formula

兄弟は弟の家の居間に、通信販売の部品でスーパーコンピュータを組んだ。

1 項足すごとに円周率の正しい桁が約 14 桁ずつ増える級数。1988 年に発表され、2009 年末から後の円周率の世界記録は、すべてこの式で計算された。

年代
1988年
人物
デヴィッド・チュドノフスキー、グレゴリー・チュドノフスキー、シュリニヴァーサ・ラマヌジャン、ビル・ゴスパー、金田康正、ファブリス・ベラール、アレクサンダー・イー、近藤茂、岩尾エマはるか
逸話

居間のスーパーコンピュータ

ニューヨークのマンハッタンの西側、コロンビア大学に近い古びた建物の最上階近くに、手作りのスーパーコンピュータを置いた部屋があった。住んでいたのは数学者のグレゴリー・チュドノフスキー。部品は通信販売で集めた。機械はもとの居間を占め、ほかの部屋にまではみ出していた。グレゴリーと兄のデヴィッドは、これを「m zero」と呼んだ。

この部屋の様子は、作家リチャード・プレストンが『ニューヨーカー』1992 年 3 月 2 日号に書いた記事「π の山々」に残っている。設計と組み立ては兄弟 2 人で行った。デヴィッドは 5 ブロック先に住んでいた。部品代はそれまでに約 7 万ドルかかり、その多くは 2 人の妻の給料から出た。鉄の枠は、グレゴリーの妻の父が、何度かの週末に自宅の地下室で作った。

グレゴリーは重症筋無力症が重く、ほとんどの時間をベッドで過ごしていた。兄弟はキエフ(いまのキーウ)で育ち、1977 年に一家でソ連を出て、フランスで半年を過ごしたのちニューヨークに移った。コロンビア大学の数学科で上級研究員の肩書きを持っていたが、終身の職ではなく、学生も教えていなかった。

機械を組んだのには理由があった。1989 年、兄弟はミネアポリスにあるクレイ 2 と、ニューヨーク州ヨークタウンハイツにある IBM 3090 の空き時間を借りて、円周率を 10 億桁を超えるまで計算した。使えるのは休日や深夜の細切れの時間だけで、計算は半年かかった。クレイの使用料は 1 時間 750 ドルで、全米科学財団(NSF)の研究費から払った。自分たちの機械を組むほうが安く、使い勝手もよい、と兄弟は考えた。

兄弟は新しい機械で 20 億桁を目指した。1991 年の夏の終わりに計算を止めたとき、桁数は 22 億 6032 万 1336 に達していた。1989 年の自分たちの記録の 2 倍で、世界記録だった。バルア、バーント、チャンの 2009 年の総説によれば、この計算には兄弟が自分たちで見つけた級数が使われた。グレゴリーはプレストンに、この式は「ラマヌジャンの流儀」で、「数行のプログラムで計算機に組み込める」と語っている。

起源

ラマヌジャンの級数から

1914 年、インドの数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、イギリスの『Quarterly Journal of Mathematics』45 巻に論文「モジュラー方程式と π の近似」を載せた。そこには を表す級数が並んでいた。並んだ級数の最後の式 (44) について、ラマヌジャンは「きわめて速く収束する」と書き、第 1 項 が に近いことを示している。今の書き方では次の形になり、1 項ごとに約 8 桁ずつ正しくなる。

同じ総説によれば、1985 年 11 月にビル・ゴスパーが式 (44) で円周率を約 1750 万桁まで計算したとき、この式はまだ証明されていなかった。17 個の級数をすべて証明したのは、1987 年のボールウェイン兄弟である。

チュドノフスキー兄弟の式は同じ型の級数で、分母の にあたる数が に変わる。プレストンの記事は、兄弟がこの式を見つけたのを 1984 年としている。論文として出たのは 1988 年である。1987 年 6 月 1〜5 日にイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で開かれた、ラマヌジャン生誕 100 年の研究集会の論文集『Ramanujan Revisited』に載った「ラマヌジャンによる近似と虚数乗法」の中にある。円周率の計算のプログラム y-cruncher も、この式を「Chudnovsky (1988)」と記す。

1989 年から 1990 年代の半ばまで、兄弟は東京大学の金田康正らと桁の記録を競り合った。金田らは、ガウスの算術幾何平均にもとづくサラミン・ブレントの方法(ガウス・ルジャンドルの方法とも呼ぶ)と、ボールウェイン兄弟の 4 次の方法を使った。1 回の繰り返しで正しい桁がおよそ 2 倍、4 倍になる方法である。2002 年 12 月には日立のスーパーコンピュータで 1 兆 2411 億桁に達した。このときは、高校の数学の教師で詩人でもあった高野喜久雄が 1982 年に見つけた式と、1896 年のシュテルマーの式という、2 つのアークタンジェントの式を使っている。

流れを変えたのは、2009 年 12 月 31 日にファブリス・ベラールが発表した約 2 兆 7000 億桁だった。この式を使い、計算の大部分を 2000 ユーロもしないパソコン 1 台で行った。1995 年からの記録は、どれも数百万ユーロのスーパーコンピュータによるものだった、とベラールは書いている。2010 年 8 月には、アレクサンダー・イーのプログラム y-cruncher を使い、近藤茂が自分で組んだパソコンで 5 兆桁を 90 日で計算した。2011 年 10 月には 10 兆桁に達した。このときは 371 日のうち約 180 日が、ハードディスクの故障による巻き戻しで失われた。2011 年 3 月 11 日の地震のあとも、計算は続いていた。日本の電力網は東の 50 Hz と西の 60 Hz に分かれていて、地震の影響を受けたのは東側だけだった、とイーは記録に書いている。

2019 年 3 月 14 日の円周率の日、Google の岩尾エマはるかは、クラウドの計算機で 31 兆 4159 億 2653 万 5897 桁を計算したと発表した。2018 年 9 月 22 日から 121 日かかった。2022 年 6 月には 100 兆桁を発表した。その後、2024 年に StorageReview が 105 兆桁と 202 兆桁、2025 年 5 月に Linus Media Group が 300 兆桁、2025 年 12 月 11 日に StorageReview が 314 兆桁を発表した。2026 年 10 月 24 日の時点で、y-cruncher の記録表の最新はこの 314 兆桁である。ベラールから後の世界記録は、どれもこの式で計算されている。

証明

14 桁ずつ増える理由と証明の道筋

完全な証明には、モジュラー形式と超幾何関数の理論が要る。ここでは、1 項ごとに約 14.18 桁ずつ正しくなる理由を初等的に導き、続けて 640320 などの数がどこから来るかの道筋を示す。 番目の項を と書く。

  1. 階乗の部分を とおく。 を 1 つ増やすと、分子に 6 個、分母に 3 個と 3 個の因数が加わる。

  2. 分子の偶数の因数は のように 2 と分母の因数の積なので、約分できる。

  3. では 120、 では 693 で、 が大きくなると、分子はほぼ 、分母はほぼ になる(図示の 1 枚目)。

  4. 1 次式の部分の比 は 1 に近づく。分母は 1 項ごとに 倍になる。

  5. なので、項は 1 つ進むごとに、およそ 分の 1 になる。その桁数は

  6. 符号が交互に変わり、項の大きさが減り続ける級数では、 項で止めた誤差は、次の項の大きさより小さい。項がおよそ 倍ずつ小さくなるので、誤差も同じ割合で縮み、正しい桁が約 14.18 桁ずつ増える。

ここからは数の出どころである。上半平面の点 に対して とおく。

  1. クラインの 関数は、 を や に変えても値が変わらないモジュラー関数で、 で展開すると次の形になる。

  2. ミラの解説によれば、兄弟が 1988 年の論文で示した恒等式は、 で次のように書ける。 はアイゼンシュタイン級数から作る関数である。

  3. を入れる。2 次体 の類数が 1 であることから、 は整数になる。

  4. である。両辺に 545140134 を掛け、 と を使うと、左辺の が消え、冒頭の式になる。

  5. 9 の では なので、7 の展開から次の式が出る。 がほとんど整数なのはこのためである。

手順 5 の は で、ほぼ に等しい。1 項あたりの桁数は とも書ける。1975 年 4 月、マーティン・ガードナーは『サイエンティフィック・アメリカン』の連載で、この数はちょうど整数で、ラマヌジャンが 1914 年の論文で予想していたと書いた。4 月の冗談で、数か月後に種を明かしている。

難しいのは手順 9 である。類数が 1 の 2 次体で の値が整数になることは、虚数乗法の理論の深い結果で、基本的な関数論だけで書いたミラの証明も、この部分だけは文献を引いている。類数が 1 になる虚 2 次体 は の 9 つしかない。いちばん大きい 163 で が最も大きくなり、収束も最も速い。ラマヌジャンの級数の には が関わり、 もやはり整数に近い。完全な証明は、兄弟の 1988 年の論文と、ミラの論文(参考文献 5)にある。

応用

1 項だけで 13 桁。 の項だけを残す。 なので となる。正しい値 とは小数第 13 位まで合い、第 14 位の 3 と 9 で分かれる。2 項では小数第 27 位まで、3 項では第 41 位まで合う。項を 1 つ足すたびに、14 桁ずつ伸びている。

ほかの級数と比べる。 ライプニッツの級数 を 項で止めると、 の誤差はおよそ になる。チュドノフスキーの公式の 1 項目と同じ誤差 にするには、約 17 兆項が要る。ラマヌジャンの 1914 年の級数では、1 項で小数第 6 位、2 項で第 15 位、3 項で第 23 位まで合う。

記録の計算のしかた。 兆の桁の計算では、項を 1 つずつ足さない。級数を半分ずつに分けて、それぞれの和を 1 つの分数にまとめてから合わせる二分割法(バイナリ・スプリッティング)と、高速フーリエ変換を使う掛け算で和を求め、最後に を求めて掛け合わせる。近藤の 5 兆桁では、級数の和に 73 日、平方根に 63 時間、最後の掛け算に 42 時間、10 進法への変換に 8 日かかった。16 進法で求めた答えの終わりの 32 桁は、16 進法の特定の桁だけを直接計算できる BBP 型の式で別に計算して照らし合わせている。2025 年の 314 兆桁は、192 コアの CPU 2 個と、作業用の約 2.1 PB の SSD を持つサーバー 1 台で、110 日かかった。

図示

係数の比 8(6k+1)(6k+3)(6k+5)/(k+1)³ を k = 0 から 15 まで並べた。120、693、982 と増え、破線の 12³ = 1728 に下から近づく。
e^(π√163) を 3 段に拡大して見る。640320³ に 744 を足した整数のすぐ手前、7.5 × 10⁻¹³ だけ小さいところにある。
円周率の計算の主な世界記録の桁数(縦は対数の目盛り)。黒い丸がチュドノフスキーの公式、白い丸はほかの式による。2009 年末から後は黒い丸だけが並ぶ。

1 枚目は証明の手順 3 にあたる。3 枚目の記録は、ベイリーらの表、ベラールの発表、y-cruncher の記録表から取った。1989 年から 1990 年代は、チュドノフスキー兄弟と金田らが交互に記録を塗り替えている。

シミュレーション

「1 項足す」を押すか、つまみで足す項の数 を変えると、 項の部分和から求めた の数字が並ぶ。正しい桁は 1 項ごとにほぼ 14 桁ずつ伸び、下線の実線と破線の切り替わりが、その項で増えた桁の区切りになる。破線の枠の中は、部分和の数字が正しい値と食い違い始めるところである。「ほかの級数と比べる」では、横軸に足した項の数を対数で取り、ライプニッツの級数で同じ精度を出すには何項要るかを矢印で示す。

広がる学問

  • 数学 640320 が出るのは、 の類数が 1 だからである。類数が 1 の虚 2 次体が 9 つしかないことは、ガウスの問いに 1950〜60 年代にヘーグナー、ベイカー、スタークが答えた結果である。 関数の係数 196884 は、モンスター群の既約表現の次元 196883 に 1 を足した数で、この一致から始まるムーンシャイン予想を 1992 年にボーチャーズが証明した。円の面積と円周率の定数 π がバーゼル問題の和に現れるのと同じく、円と関係のなさそうな整数の世界から π が出てくる例である。
  • 情報科学 数兆桁の掛け算には高速フーリエ変換を使う。メモリに入りきらない数は SSD やハードディスクとの間でやり取りし、314 兆桁の計算では、ディスクの読み出しが 132 PiB、書き込みが 112 PiB にのぼった。級数の和を速く求める二分割法は、テイラー展開の級数でネイピア数を計算するときにも使われる。
  • 工学 計算を 1 回でも誤れば桁が狂うので、π の計算は計算機の検査に使われてきた。ベイリーらによれば、1986 年には π の計算のプログラムが、初期のクレイ 2 のハードウェアの不具合を見つけた。イーと近藤は、オーバークロックしていない機械でも、CPU を休みなく 4 週間使うと、およそ 1 回は計算の誤りに出会うと書いている。

参考文献

  1. D. V. Chudnovsky, G. V. Chudnovsky, "Approximation and complex multiplication according to Ramanujan", in G. E. Andrews et al. (eds.), Ramanujan Revisited: Proceedings of the Centenary Conference (Urbana-Champaign, June 1-5, 1987), Academic Press (1988), 375-472.
  2. S. Ramanujan, "Modular equations and approximations to π", Quarterly Journal of Mathematics 45 (1914), 350-372; N. D. Baruah, B. C. Berndt, H. H. Chan, "Ramanujan's series for 1/π: a survey", Amer. Math. Monthly 116 (2009), 567-587.
  3. R. Preston, "The Mountains of Pi", The New Yorker(1992 年 3 月 2 日号), 36-67.
  4. D. H. Bailey, J. M. Borwein, P. B. Borwein, S. Plouffe, "The Quest for Pi", Math. Intelligencer 19(1) (1997), 50-57; D. H. Bailey, "Some Background on Kanada's Recent Pi Calculation"(2003 年 5 月 16 日)
  5. L. Milla, "A detailed proof of the Chudnovsky formula with means of basic complex analysis", arXiv:1809.00533(2021 年改訂、一部は Ramanujan J. 2021)
  6. A. J. Yee, y-cruncher の記録表と記録の詳細(5 兆桁・10 兆桁・2019 年の Google の記録の検証、https://www.numberworld.org/y-cruncher/ 、2026 年 10 月 24 日参照); F. Bellard, "Pi Computation Record"(2009 年 12 月 31 日); E. H. Iwao, Google Cloud Blog(2019 年 3 月 14 日、2022 年 6 月); StorageReview, "StorageReview Sets New Pi Record: 314 Trillion Digits on a Dell PowerEdge R7725"(2025 年 12 月 11 日)
  7. D. A. Cox, Primes of the Form x² + ny² (Wiley, 1989); Wolfram MathWorld "Ramanujan Constant"(M. Gardner, Scientific American 1975 年 4 月号の冗談について)

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