コペンハーゲンとスタンフォード
1979 年、京都大学の佐藤勝彦は、超新星の爆発を研究するために、コペンハーゲンの北欧理論原子物理学研究所(NORDITA)に 1 年の予定で招かれた。2020 年の『フィジックス・ワールド』の取材で、佐藤は、そこで関心が初期の宇宙の相転移へ移っていったと語っている。相転移は、水が氷になるような状態の移り変わりである。素粒子の大統一理論では、熱い初期の宇宙で、真空そのものが相転移を起こす。
佐藤は、相転移が遅れて、真空がエネルギーの高い状態にとどまるとどうなるかを計算した。NORDITA の報告は 1980 年 1 月付で、論文は 2 月 21 日に英国の王立天文学会の月報に受け付けられた(改訂版の受付は 9 月 9 日)。宇宙の膨張は指数関数的になり、そのあいだ相転移はさらに遅れる。取材に佐藤は「宇宙の膨張が指数関数的になることを見つけた。これがいまインフレーションと呼ぶものである」と答えている。三菱電機の宇宙のサイト DSPACE の 2014 年 4 月のコラムによれば、佐藤が初めて公の場で話したのは 1980 年 3 月、イタリアのシチリア島の宇宙物理の学会で、まわりの反応は鈍かったという。コラムが引く佐藤の言葉では、宇宙が生まれて 10 のマイナス 36 乗秒後の話を、言えるのか、観測できるのか、という感じだった。
同じころ、カリフォルニアのスタンフォード線形加速器センター(SLAC)では、研究員のアラン・グースが、コーネル大学のヘンリー・タイと、大統一理論の相転移でできる磁気単極子を調べていた。二人の論文は 1979 年 12 月 26 日に受け付けられた。グルーバー財団の紹介によれば、単極子をどう消すかを考えたことが、グースをインフレーションに導いた。グースの論文「インフレーション宇宙」は 1980 年 8 月 11 日に受け付けられ、1981 年 1 月 15 日に出た。佐藤の論文は 1981 年 7 月 1 日の号に載った。名前として残ったのは、グースの「インフレーション」である。
平らすぎる宇宙と、そろいすぎた温度
グースの論文の副題は「地平線と平坦性の問題の、ありうる解決」である。ビッグバンの理論には、説明のつかない始まりの条件が 2 つあった。1 つは平らさである。空間の曲がり(曲率)は、密度と、膨張の速さに応じた臨界密度との比 で決まり、 なら平らである。 は時間とともに大きくなるので、いま 1 に近いなら、初めはとてつもなく 1 に近かったことになる(証明の 7)。もう 1 つは地平線である。宇宙背景放射が出るまでに光が進めた距離は、いまの空で半径 1.2° ほどにしかならない(この記事での計算)。空の反対側どうしは光を交わしたことがないのに、温度は 10 万分の 1 の精度でそろっている。グースは、宇宙が相転移の温度より 28 桁以上冷えすぎれば、指数関数的な膨張が両方を消すと論じた。
式の形そのものは古い。1917 年、ウィレム・ド・ジッターは、物質が無く宇宙項だけがあるアインシュタイン方程式の解を見つけた。1925 年、ジョルジュ・ルメートルは座標を取り直し、それが指数関数で膨らむ平らな空間でもあることを示した。
同じ道は、ほかにもあった。モスクワのランダウ理論物理学研究所のアレクセイ・スタロビンスキーは、1979 年の論文で、宇宙の初めにド・ジッターの時期があった場合に残る重力波を計算し、1980 年 3 月の号の論文で、量子の効果を入れた重力の式から、特異点が無くド・ジッターの状態から始まる宇宙を導いた。NASA のゴダード宇宙飛行センターのデモステネス・カザナスは、1980 年 10 月の論文で、相転移で膨張が指数関数になれば、宇宙が等方なことを説明しうると書いた(図示の 3 枚目)。
グースの模型には欠陥があった。相転移は泡のように起こり、泡がつながらず、宇宙はむらだらけになる。グース自身、そのままでは受け入れられない結果になると論文に書いていた。佐藤も 1981 年、京都大学の佐々木節・小玉英雄・前田恵一と、この相転移で宇宙にワームホールができうることを示し、相転移が終わるまでの時間を見積もった。1981 年 10 月の報告でアンドレイ・リンデ(モスクワのレベデフ物理学研究所)が、1982 年 1 月 25 日に受け付けられた論文でペンシルベニア大学のアンドレアス・アルブレヒトとポール・スタインハートが、ゆるやかに進む相転移で滑らかに終わる「新しいインフレーション」を出した。リンデは 1983 年、相転移を前提にしない「カオス的インフレーション」も出した。
揺らぎの計算は、レベデフ物理学研究所のヴャチェスラフ・ムハノフとゲンナジー・チビソフが先に出した。1981 年 2 月 26 日に投稿した論文で、スタロビンスキーの模型の量子の揺らぎが、銀河や銀河団の種になりうることを示した。1982 年 6 月から 7 月のケンブリッジの研究会のころ、ホーキング、スタロビンスキー、グースとピ、バーディーンとスタインハートとターナーが、新しいインフレーションで同じ結論に至った。
2014 年 5 月、カブリ賞の天体物理学部門を「宇宙のインフレーションの理論を切り開いた」として、グース、リンデ、スタロビンスキーに贈ると発表された。佐藤は同じ 2014 年度の文化功労者に選ばれている。
真空のエネルギーが e を生む
宇宙はどこでも一様で、どの向きにも同じとする。 は宇宙の大きさの倍率(スケール因子)、 は膨張の速さ(ハッブル・ルメートルの法則の )、 は質量に直した密度、 は曲率の符号(閉じた宇宙で 、平らで 、開いた宇宙で )である。
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アインシュタイン方程式を一様な宇宙に使うと、フリードマン方程式になる。
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圧力 をもつものの密度は、次の式で変わる。真空のエネルギーは なので、膨らんでも薄まらない。宇宙項と同じ働きである。
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曲率の項が小さくなれば、 は一定になる。
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は、微分しても形の変わらない関数で解ける(ネイピア数 e)。大きさが 倍になった回数を と書く。
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1 の式を で割り、平らにする密度(臨界密度) との比 で書く。
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インフレーションの間は が一定なので、ずれは 倍になる。
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そのあとの放射の時代(、)と物質の時代(、)には、ずれは増える。
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光が進む距離を、今の大きさに直して足す。中の は見える範囲の大きさ(共動ハッブル半径)で、5 の分母と同じものである。
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インフレーションの間、 は 倍に縮み、そのあとふたたび伸びる(図示の 1 枚目)。今の空全体が、始まりのときに見える範囲の中にあったなら、地平線の問題は消える。始まりの を 1 ほどとすると、平らさも同じ条件になる。
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放射の時代は 、 なので 、物質の時代は である。終わりの温度を GeV、放射と物質が等しくなった時を eV・ とする。
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インフレーションを起こす場 の 1 つの波は、波長が見える範囲よりずっと短いうちは、調和振動子と同じ式に従う。不確定性原理のため、いちばんエネルギーの低い状態でも振れ幅は 0 にならない。見える範囲の外へ出るときの大きさは、場の量子論で計算すると次になる()。
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が だけずれた場所では、インフレーションの終わりが だけずれる。膨らんだ回数のむら が、物質の密度のむらの種になる。
曲率があっても、 を 3 の値として、閉じた宇宙では 、開いた宇宙では が 1 と 2 の厳密な解で、どちらもすぐ に近づく。10 の は模型による。プランクの 2018 年の論文は、今の平らさの精度から を出している。 GeV なら 62、1 TeV なら 34 である。11 は筋だけを示した。12 は 1982 年のグースとピの論文と同じ考え方で、相転移の終わる時刻が場所ごとにずれることが、むらを生む。
観測の手がかりは 1992 年に出た。COBE 衛星は空の温度のむらを 10° の角度でならして 30 ± 5 µK と測り、尺度によらない揺らぎと合うと報告した。プランクが測った の大きさ から、大きな角度の温度のむら が出る。2.7255 K に対する 30 µK は で、桁が合う。WMAP は 9 年の観測をほかの観測と合わせて、揺らぎがわずかに傾いていることを 5σ で示した。プランクの 2018 年の結果は で、尺度によらない から誤差の 8 倍離れている。平らさは 0.4 % の精度で確かめられた(、95 %)。
応用
10⁻³⁶ 秒たらずの 60 回。 プランクと BICEP/Keck の観測から、インフレーションのエネルギーの上限は GeV である。仮にこの値なら、証明の 3 から /s で、 倍になるのに 秒、60 回でも 秒である。見える範囲 は m ほどで変わらない。 で なら なので、点は次々にその外へ出ていく。 だから、陽子の直径 m は m、地球と太陽の距離の 1.3 倍に伸びる。
原始重力波を探す。 インフレーションは時空のさざ波も生み、宇宙背景放射の偏光に B モードという渦の模様を残す。強さはテンソル・スカラー比 で表し、 はインフレーションのエネルギーの 4 乗に比例する。2014 年 3 月 17 日、南極の望遠鏡 BICEP2 は の信号を発表した。スタンフォード大学は、共同代表のチャオリン・クオがリンデの家を訪ね、夫妻とシャンパンで乾杯する動画を公開した。2015 年、プランクと合わせた解析は、塵の強い証拠を見つけ、重力波の有意な証拠は無いと結論した。2021 年の BICEP/Keck の上限は で、エネルギーにして GeV 未満にあたる(この記事での換算)。JAXA は、この模様を探す衛星 LiteBIRD の 2036 年度の打ち上げを目指している。
1 万の区画。 インフレーションが無ければ、宇宙背景放射が出た時の見える範囲は空で半径 1.16° ほどで、空はおよそ 1 万の、互いに光を交わしたことのない区画に分かれる(この記事での計算)。どの区画も同じ 2.7255 K を示すことが、地平線の問題の中身である。
2 度目の指数関数。 暗黒エネルギーが宇宙項と同じ働きを続けるなら、遠い未来の膨張は km/s/Mpc の に近づく。 倍になるのに 175 億年、2 倍に 121 億年かかる。
図示
は 1 枚目の縦の量 の 2 乗に比例するので、平らさの問題と地平線の問題は同じ図で読める。
シミュレーション
円は閉じた宇宙の切り口で、破線の丸は見える範囲 である。見える範囲を同じ大きさにそろえて描くので、インフレーションが進むと円は大きくなり、曲がりもむらも見えなくなる。グラフは を横軸の とともに対数の目盛りで描き、インフレーションの間は傾き で下がり、そのあと上がる。終わりの温度が GeV のとき、 を 62 以下にすると今日の が観測の上限を超え、59 以下にすると途中で 1 に戻って閉じた宇宙はつぶれる(開いた宇宙はつぶれずに、曲率が膨張を決めて が 0 へ近づく)。終わりの温度を下げると、要る は少なくなる。
広がる学問
- 物理学 素粒子の大統一理論の相転移から始まった考えで、いまはインフレーションを起こす場(インフラトン)の正体を素粒子の理論から探している。スタロビンスキーの模型は、重力の式に曲率の 2 乗の項を足したものである。
- 天文学 宇宙背景放射の温度のむらと偏光の地図、銀河の分布を、インフレーションが作った揺らぎの と に照らし合わせる。
- 数学 ド・ジッターの時空は、5 次元のミンコフスキー空間の中の双曲面として書ける。座標の取り方で、止まった宇宙にも、指数関数で膨らむ平らな宇宙にも見える。
参考文献
- K. Sato, MNRAS 195 (1981), 467-479(1980 年 2 月 21 日受付・9 月 9 日改訂版受付・NORDITA-80-29); Phys. Lett. B 99 (1981), 66-70; G. Jones, Physics World(2020 年 6 月 4 日); 三菱電機 DSPACE「読む宇宙旅行」宇宙創生時の急膨脹「インフレーション」の証拠写真を撮る日(2014 年 4 月 24 日).
- A. H. Guth, Phys. Rev. D 23 (1981), 347(1980 年 8 月 11 日受付); A. H. Guth, S.-H. H. Tye, Phys. Rev. Lett. 44 (1980), 631; グルーバー財団のグースの紹介.
- W. de Sitter, MNRAS 78 (1917), 3-28; G. Lemaître, J. Math. Phys. 4 (1925), 188-192; A. A. Starobinsky, JETP Lett. 30 (1979), 682; Phys. Lett. B 91 (1980), 99; D. Kazanas, ApJ 241 (1980), L59.
- K. Sato, M. Sasaki, H. Kodama, K. Maeda, Prog. Theor. Phys. 65 (1981), 1443; A. D. Linde, Phys. Lett. B 108 (1982), 389; 129 (1983), 177; A. Albrecht, P. J. Steinhardt, Phys. Rev. Lett. 48 (1982), 1220; V. F. Mukhanov, G. V. Chibisov, JETP Lett. 33 (1981), 532; A. H. Guth, S.-Y. Pi, Phys. Rev. Lett. 49 (1982), 1110; S. W. Hawking, Phys. Lett. B 115 (1982), 295; A. A. Starobinsky, Phys. Lett. B 117 (1982), 175; J. M. Bardeen, P. J. Steinhardt, M. S. Turner, Phys. Rev. D 28 (1983), 679.
- G. F. Smoot et al., ApJ 396 (1992), L1; G. Hinshaw et al., ApJS 208 (2013), 19; Planck Collaboration, A&A 641 (2020), A6・A10.
- BICEP2, Phys. Rev. Lett. 112 (2014), 241101; BICEP2/Keck・Planck, 114 (2015), 101301; BICEP/Keck, 127 (2021), 151301; ハーバード・スミソニアン天体物理学センターの発表(2014 年 3 月 17 日); スタンフォード大学 HEPL の動画.
- カブリ賞 2014 年 天体物理学部門; 東京大学「文化功労者」(2014 年度); JAXA 宇宙科学研究所 LiteBIRD.