ヘルゴラント島の夜明け
ヴェルナー・ハイゼンベルクの回想によると、1925 年 6 月、ゲッティンゲン大学にいた 23 歳のハイゼンベルクは、ひどい花粉症で顔が腫れ上がり、休みをもらって北海の小島ヘルゴラントへ渡った。ドイツの海岸から 50 km ほど離れた、草木の少ない岩の島で、花粉がほとんど飛ばない。
島でハイゼンベルクは、原子の中の電子の軌道という、誰も見たことのないものを使うのをやめ、実際に測れる量、つまり原子が出す光の振動数と強さだけで力学を組み立て直そうとしていた。
44 年後の 1969 年に出した回想録『部分と全体』によると、ある晩、計算の結果がエネルギーの保存を満たすことを確かめられたのは、夜中の 3 時ごろだった。興奮して眠れず、宿を出て島の南の端にある岩に登り、日の出を待ったという。
この場面は、本人の回想のほかに確かめる記録が無い。ハイゼンベルク自身も、この本は細部まで正確な記録ではないと断っている。確かなのは、島から戻ったハイゼンベルクが論文「運動学的および力学的な関係の量子論的な読み替えについて」を書き、7 月 29 日に雑誌に届いたことである。マックス・ボルンとパスクアル・ヨルダンが、そこに出てくる数の表が行列であることに気づき、行列力学ができあがった。2025 年 6 月、この島で量子力学の 100 年を記念する国際会議が開かれた。
不確定性原理は、その 2 年後に生まれた。1927 年 2 月、コペンハーゲンのボーアの研究所にいたハイゼンベルクは、ボーアがスキーの休暇で留守の間に、考えをまとめた。2 月 23 日には、友人のヴォルフガング・パウリに長い手紙で内容を書き送っている。戻ったボーアは原稿の考え方に強く反対し、2 人は激しく議論した。論文は 3 月に投稿され、最後に、ボーアの指摘を受けて誤りを認める注が付け加えられた。
起源
1927 年の論文「量子論的な運動学と力学の直観的な内容について」で、ハイゼンベルクは思考実験を使った。電子の位置を顕微鏡で見ようとする。細かく見るには、波長の短い光、たとえばガンマ線を当てなければならない。ところが波長の短い光ほど、光子 1 個の運動量が大きく、当たった電子を強くはね飛ばす。位置を正確に知ろうとするほど、運動量は乱される。ハイゼンベルクは、位置の不正確さと運動量の不正確さの積がおよそプランク定数 ほどになると書いた。
ボーアが指摘したのは、顕微鏡でどこまで細かく見えるかは、光の波長だけでなくレンズの開きの角度でも決まる、という点である。ハイゼンベルクは論文の追記でこれを認めた。ボーアはこの年の秋、粒子と波の 2 つの見方は互いに補い合うという「相補性」の考えを発表した。
この不等式をきちんとした形で示したのは、同じ 1927 年のアメリカのアール・ケナードである。位置と運動量のばらつきを標準偏差 、 で表し、どんな状態でも ()となることを証明した。1928 年にはヘルマン・ワイルが本の中で短い証明を示し、1929 年にはハワード・ロバートソンが、どんな 2 つの量についても成り立つ形に広げた。
ケナードの不等式は、状態そのものがもつばらつきについての式で、ハイゼンベルクの顕微鏡が言う「測る誤差と、測ることによる乱れ」の関係とは別のものである。2003 年、小澤正直は、誤差と乱れについて正しく成り立つ不等式を示し、ハイゼンベルクの元の形の関係は破れることがあると指摘した。2012 年には、ウィーン工科大学の長谷川祐司らの中性子の実験と、トロント大学の光子の実験が、それを確かめた。
証明
ケナードの不等式を、ワイルの方法で示す。1 次元で、粒子の状態を波動関数 で表す。座標の原点と運動量の基準をずらして、位置と運動量の平均を 0 にしておく。運動量は で表される。
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粒子はどこかに必ずいるので
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位置と運動量のばらつきは、部分積分を使って
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なので、部分積分して 1 を使うと
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左辺の絶対値は、中身の絶対値の積分より大きくならない。
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コーシー・シュワルツの不等式で右辺を上から押さえ、2 を使うと
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4 と 5 を合わせると
5 で等号が成り立つのは が に比例するとき、つまり がガウス関数(正規分布の形)のときである。
この不等式は、測定の腕前の話ではない。位置がはっきりした波は、たくさんの波長の波を重ねないと作れず、波長がそろった波は空間に広がる。粒子が波の性質をもつ以上、位置と運動量の両方がはっきりした状態は、もともと存在しない。
応用
原子がつぶれない理由。 電子は原子核に引かれているのに、核に落ち込まない。電子を半径 の中に閉じ込めると、運動量は少なくとも ほどばらつき、運動エネルギー が生じる。核に近づくほど、このエネルギーが増える。電気の引力のエネルギー との和が最も小さくなる半径を計算すると、 nm、エネルギーは eV になり、水素原子の実際の大きさとエネルギーに一致する。
電子とボールの違い。 電子を 0.1 nm(原子の大きさ)の範囲に閉じ込めると、速さのばらつきは少なくとも m/s、秒速 580 km にもなる。一方、0.145 kg の野球のボールの位置を 1 µm まで決めても、速さのばらつきは m/s で、測りようがないほど小さい。日常の物で不確定性が見えないのは、質量が大きいからである。
短い音は高さがぼやける。 同じ数学は、時間と振動数の間にも成り立つ。長さ の音や電波の振動数は、少なくとも だけ広がる。0.01 秒しか鳴らない音は、約 8 Hz より細かく高さを決められない。通信で短いパルスを送るほど広い周波数の幅が要るのも、同じ理由である。
重力波の観測。 重力波望遠鏡 LIGO は、鏡の動きを陽子の大きさの 1 万分の 1 ほどまで測る。この精度では、光の量子的な揺らぎが雑音になる。そこで、ある量のばらつきを小さくする代わりに別の量のばらつきを大きくした「スクイーズド光」を使い、不確定性の範囲の中で雑音を減らしている。
図示
シミュレーション
上は粒子の波(太い線が存在の確率、細い線が波の実部)、下は運動量の分布である。はじめの幅 を狭くすると、下の運動量の分布が広がる。波は止まったあと、すっと動き出し、広がりながら進む。はじめに狭く閉じ込めた波ほど速く広がるのは、運動量のばらつきが大きいからである。積 は、出発の瞬間にだけ最小の になる。
広がる学問
- 物理学 絶対零度でも原子や分子が完全には止まらない「零点振動」は、不確定性原理から出る。液体ヘリウムが常圧ではどれだけ冷やしても固体にならないのは、この揺れが大きいからである。
- 化学 原子や分子の大きさ、化学結合の長さは、電子を狭く閉じ込めるほど運動エネルギーが増えることと、電気の引力との釣り合いで決まる。スペクトル線に幅があるのも、励起した状態の寿命が有限だからである。
- 情報科学 量子暗号では、盗み聞きしようとして光子の状態を測ると、必ず状態が乱れることを使って、盗聴に気づく。
- 工学 信号処理では、短い時間の信号ほど周波数の幅が広がる。音声の分析や、無線通信の帯域の設計は、この関係を前提にしている。重力波の観測装置では、不確定性の範囲で雑音を振り分ける技術が使われている。
参考文献
- W. Heisenberg, "Über den anschaulichen Inhalt der quantentheoretischen Kinematik und Mechanik", Zeitschrift für Physik 43 (1927), 172-198.
- W. Heisenberg, "Über quantentheoretische Umdeutung kinematischer und mechanischer Beziehungen", Zeitschrift für Physik 33 (1925), 879-893.
- E. H. Kennard, "Zur Quantenmechanik einfacher Bewegungstypen", Zeitschrift für Physik 44 (1927), 326-352.
- W. Heisenberg, Der Teil und das Ganze (München: Piper, 1969)(山崎和夫 訳『部分と全体』みすず書房)
- M. Ozawa, "Universally valid reformulation of the Heisenberg uncertainty principle on noise and disturbance in measurement", Physical Review A 67 (2003), 042105.
- J. Erhart et al., "Experimental demonstration of a universally valid error-disturbance uncertainty relation in spin measurements", Nature Physics 8 (2012), 185-189.