0.18 nm隣の赤い線
水素が出す赤い光、Hα線のすぐ隣に、波長がおよそ0.18 nm短い弱い線が出る。原子核が陽子1個ではなく、陽子と中性子でできた水素、重水素の線である。
この線を探し当てたのは、ハロルド・ユーリーらだった。1935年2月のノーベル賞講演によると、試料を用意したのはアメリカ国立標準局のブリックウェッドで、液体水素4,000 ccを三重点の近くで蒸発させ、約1 ccまで減らした。ユーリーは助手のマーフィーとともに、1931年の秋にこの試料の光を調べている。分光には、長さ21フィートの凹面回折格子が使われた。
探す場所は、初めから決まっていた。重水素の線の位置は、前もって計算できていたのである。原子核が重くなれば、電子と原子核の換算質量がわずかに変わり、リュードベリ定数も変わる。見つかった線の波長は、約0.02 Åの実験誤差の範囲で予想と一致した。
ただ、2つの物体がどちらも動くという見方そのものは、ずっと古い。ニュートンは『プリンキピア』第1巻第11章の冒頭で、ここまでは動かない中心に向かう引力を扱ってきたが、そのような中心は「おそらく自然には存在しない」と断っている。命題59でニュートンは、質量との2つの物体が共通の重心のまわりを回り合うときの周期が、を止めてだけを同じ形の軌道で回したときの周期の倍になると証明した。この比は、換算質量を使えばと書ける。
2本の運動方程式を差に組み直す
図で納得する
2つの物体が力を及ぼし合うと、どちらも動く。ところが、2つの間の距離の変わり方だけを追うなら、質量の物体1つが同じ力を受けて動く問題と同じになる。この(ミュー)が換算質量で、と計算する。
、は2つの質点の質量、、は基準の点から測った位置である。太字は向きと大きさをもつ量(ベクトル)の印で、矢印と思えばよい。は質点2から質点1へ向かう矢印で、相対位置という。
数を入れてみる。6 kgと3 kgの物体が6 Nで引き合うと、力を質量で割って、加速度は6 kgのほうが1 m/s²、3 kgのほうが2 m/s²になる。向かい合って進むので、2つの間は m/s²の加速度で縮む。
換算質量は kgである。2 kgの物体1つに6 Nをかけると、加速度は3 m/s²で、間の縮み方と同じになる。2体が1体になるとは、こういうことだ。
では、片方がずっと重いとどうなるか。 kgのままを重くすると、は1 kgに近づく。と書き直すと、掛ける分数が1に近づくからだ。
| 1 kg | 3 kg | 9 kg | 99 kg | |
|---|---|---|---|---|
| 0.5 kg | 0.75 kg | 0.9 kg | 0.99 kg |
左は重心から見た2つの動きで、×が重心である。を重くするとはほとんど動かなくなり、だけが大きく回る。右は同じ動きをから見たもので、質量の点1つが半径の円を回る形になる。
式で確かめる
道すじは3段ある。2本の運動方程式を足すと重心の式が出て(手順1〜3)、質量で割って引くと相対位置の式が出る(手順4、5)。最後に、重心と相対位置から元の位置とエネルギーを書き戻す(手順6、7)。
質点2が質点1に及ぼす力をとし、外からの力ははたらかないとする。文字の上の点2つは加速度の印で、は質点1の加速度である。作用・反作用の法則により、質点1は質点2に、同じ大きさで逆向きの力を及ぼす。
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作用・反作用の法則を使い、2本の運動方程式を書く
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2本を足す
6 kgと3 kgの例で右向きを正にすると、である。重心の位置は質量で重みをつけた平均なので、手順2をで割ると、左辺はになる。
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重心の加速度が0になる
次に、手順1をそれぞれの質量で割って、質点ごとの加速度を出す。
左の式から右の式を引くと、マイナスが2つ重なって足し算になる。例の数では m/s²で、間の縮み方と同じ値だ。
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手順1をそれぞれの質量で割って引く
左辺は相対位置の加速度である。かっこの中を通分するとになり、その逆数をとおいて両辺に掛ける。
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相対位置で書き、係数の逆数をとおく
は、力が相対位置で決まることを表す。手順4の係数からとなり、並列につないだ抵抗の合成と同じ形をしている。6 Ωと3 Ωを並列につなぐと全体は2 Ωになり、6 kgと3 kgのも同じ計算で2 kgになる。
は1 Nあたりの加速度、つまり動きやすさを表す。動きやすさを2つ足すので、はどちらの質量よりも小さくなる。
がよりずっと大きいときは、の式の分母と分子をで割る。小さなではとなること(なら)を使うと、次の形になる。
は軽いほうの質量からわずかに減るだけだ。水素原子では電子が、陽子がで、陽子は電子の約1836倍重い。なので、減るのは電子の質量の約0.05%である。
では、2つの質点はそれぞれどこにいるのか。重心と相対位置が分かれば、元に戻せる。
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重心と相対位置から、2つの位置を書き戻す
6 kgと3 kgの間が9 mなら、重心から6 kgまでは m、3 kgまでは mで、と釣り合う。文字の上の点1つは速度の印で、は質点1の速度である。
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運動エネルギーも重心の分と相対運動の分に分かれる
この数を入れると、左辺は J、右辺は Jで一致する。
重心は等速で動き続けるので、重心とともに動く座標から見れば、残るのは手順5の1本だけ。つまり、2体の問題が質量の1体の問題に変わる。
万有引力ならで、大きさは、向きは相手のほうを指す。手順5をで割ると、なので、右辺には質量の和が残る。
ケプラーの第三法則で、太陽の質量を太陽と惑星の質量の和に置き換える補正は、この式から出る。ニュートンが命題59で示した比も、を止めたと比べれば読める。同じ距離なら、周期は質量の和の平方根に反比例するからだ。
原子核の重さが線を動かす
水素のような原子が出す光の波長は、ボーアの式で計算できる。その式に入るリュードベリ定数は電子の質量に比例するので、電子の質量を換算質量に置き換える。原子核の質量をとすれば、の式の分母と分子をで割ってとなり、原子核が無限に重いときの値をとして、リュードベリ定数は次の形だ。
物理定数の推奨値CODATA 2022の m⁻¹に、陽子と電子の質量比1836.153、重陽子(重水素の原子核)と電子の質量比3670.483を入れると、 m⁻¹、 m⁻¹。違いは0.03%にも満たない。
それでも、電子が3番目の軌道から2番目へ移るときに出る、真空中でのHα線()の波長を出すと、水素で656.470 nm、重水素で656.291 nmで、差は0.179 nmに広がる。は、の逆数である。線がさらに細かく分かれる微細構造を無視した計算だが、ユーリーが探した0.18 nmのずれは、換算質量だけで説明がつくのだ。
2原子分子の振動も、2つの原子をばねでつないだ2体の問題になる。壁につないだおもりの角振動数のをに替えると、ばね定数が同じなら、角振動数はで、換算質量の平方根に反比例する。角振動数(オメガ)は1秒あたりに進む角度で、大きいほど速く揺れる。
uは原子の質量の単位で、水素原子がほぼ1 u、塩素35がほぼ35 uにあたるので、つまみの質量はきりのよい整数である。上は重心を止めて見た2つの原子で、塩素はほとんど動かず、水素が大きく揺れる。下の壁につないだの1つは、上の2つの間の長さと同じように揺れる。
を1 uから2 uにすると、は0.97 uから1.89 uに増え、周期は1.39倍に延びる。実際の分子でもそうなるのか。
HuberとHerzbergがまとめ、NISTの化学データベースに載る定数を見ると、塩化水素の振動の波数(分光学の記号で)は2990.946 cm⁻¹。水素を重水素に替えたでは2145.163 cm⁻¹で、比は1.39427である。波数は1 cmに入る波の数で、振動数に比例するので、この比は周期の比にあたる。
原子の正確な質量から換算質量を出し、その比の平方根をとると1.39431で、小数第3位まで一致した。2つの原子核の間の距離(核間距離)もどちらも1.2746 Å(1 Åは0.1 nm)で、原子核を替えても結合そのものはほとんど変わらない。
宇宙では、2つの天体が回り合う連星の重力波にも、換算質量が顔を出す。重力波のチャープ質量は、換算質量と質量の和を組み合わせたである。
ポジトロニウムと塩化水素
例題 1基本換算質量の大きさ
(1)がとのどちらよりも小さいことを示せ。(2)のときのを求めよ。(3)陽子の質量を電子の1836.15倍として、水素原子の換算質量は電子の質量の何倍か、有効数字5桁で求めよ。
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(1)で、だから。とを入れ替えても同じで、。
(2)
(3)分母と分子を電子の質量で割る。
例題 2大学運動エネルギーを分ける
手順6を時間で微分して、手順7が成り立つことを示せ。とする。
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手順6を時間で微分する(時間あたりの変化を見る)と、位置がそのまま速度に変わる。速度は、。で2乗して質量を掛け、足し合わせる。
の項はで消える。の係数は次のようになる。
残りはで、手順7が得られる。
例題 3大学塩化水素のばね定数
の振動の波数を2990.9 cm⁻¹、原子の質量をH 1.00783 u、H 2.01410 u、Cl 34.96885 uとする。1 u = kg、光の速さを m/sとして、(1)の換算質量をuで(2)ばね定数をN/mで、それぞれ有効数字3桁で求めよ。(3)ばね定数が変わらないとして、の振動の波数を予想せよ。
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(1) u
(2)波数に光の速さを掛けると振動数になり、それを倍すると角振動数になる。2990.9 cm⁻¹は m⁻¹である。
を2乗してについて解く。
(3) uで、。
応用の章の測定値2145.163 cm⁻¹とよく合う。
例題 4大学電子と陽電子の原子
電子と、電子と同じ質量で正の電荷をもつ陽電子が結びついたポジトロニウムを、水素と同じ形の原子とみなす。原子核が無限に重いときの基底状態の結合エネルギーを13.606 eV、 m⁻¹とする。(1)換算質量(2)基底状態の結合エネルギー(3)で出る光の波長を求めよ。
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(1)質量が等しいので、例題1の(2)から。
(2)エネルギーの準位は換算質量に比例するので、半分の eV。
(3)リュードベリ定数も半分になる。
水素の同じ線(約121.6 nm)のほぼ2倍の波長になる。
重水素に替えた結合のばね
- 2022年 化学グランプリ 一次選考 問題3〔問キ〕:分子の振動を、2つの原子をばねでつないだ単振動とみなし、角振動数がになることを使う。ばね定数が等しいとき、水分子のO−¹H結合とO−²H結合のどちらの角振動数が大きいかを選ぶ。解答の解説は、O−²Hのほうが換算質量が大きいので振動数が小さくなるとしている。出典は化学グランプリ「化学グランプリ2022の一次選考問題」と解答。
参考文献
- 京都大学 全学共通科目「力学続論」シラバス(2026年度 後期、配当学年は主として1・2回生。授業計画に「質点系の重心と相対運動」)
- I. Newton, The Mathematical Principles of Natural Philosophy, trans. A. Motte, Book I, Section XI, Propositions LVII-LIX
- H. C. Urey, "Some thermodynamic properties of hydrogen and deuterium", Nobel Lecture, February 14, 1935
- NIST「CODATA Internationally recommended 2022 values」:Rydberg constant、proton-electron mass ratio、deuteron-electron mass ratio
- NIST Chemistry WebBook「Constants of diatomic molecules」(K. P. Huber, G. H. Herzberg):HCl、DCl。原子の質量はNIST「Atomic Weights and Isotopic Compositions」のHとCl
- 化学グランプリ「化学グランプリ2022一次選考問題」「一次選考解答」