本人の書いていない話
アルキメデスが湯船から飛び出し、「見つけた」と叫んだ話は、だれが書いたのか。アルキメデス本人ではない。書き残したのは、およそ200年後のローマの建築家ウィトルウィウスである。
公式に付いた言い伝えは、多くがこの形をしている。ピタゴラスの生け贄も、ガウスの石板も、ニュートンのリンゴも、ガリレオのランプも、いま読めるのは本人以外の人が残した記録だ。
それでも、原典を開けば話は一色ではない。書き手が自分の目で見たこと、本人から聞いたこと、うわさとして書き留めたことは、多くの場合、文の形で区別されている。
手がかりは3つある。最初に書いたのはだれか。出来事から何年後か。書き手は本人から聞いたのか。この3つを当てると、動かない芯と、語り継ぐうちに付いた飾りが分かれてくる。
古代ギリシアの言い伝え
ウィトルウィウスは『建築について』第9巻の序文で、数学の発見を4つ続けて紹介した。プラトンが正方形を2倍にした作図、ピタゴラスが長さ3、4、5フィートの棒で直角を作った方法、アルキメデスの冠、そしてデロスのアポロンが神託で命じた、祭壇を2倍にする問題である。
ピタゴラスの話は、建築家らしい書き方になっている。3と4の正方形の面積を足すと5の正方形になると説明し、この比は階段の勾配を決めるのにも役立つ、と添える。そのあいだに一文だけ、ピタゴラスはこれをムーサたちの導きによる発見と信じ、感謝の生け贄を捧げたと言われる、とある。
キケロの対話篇『神々の本性について』第3巻では、話し手のコッタが同じ話を退ける。幾何学で新しいことを見つけたピタゴラスがムーサに牛を捧げたと言われるが、それは信じない、と言う。デロスのアポロンにさえ、祭壇を血で汚さないよう生け贄を捧げなかった人だから、という理由である。
3世紀ごろのディオゲネス・ラエルティオスは、計算家アポロドロスの話として、斜辺に立てた正方形がほかの2辺に立てた正方形の和に等しいと見つけたときに、牛を捧げたと記す。見つけたものは3、4、5の直角か、幾何学の新しいことか、斜辺の定理か。捧げたものも、生け贄か牛か。3つの本の書き方はそろわない。
アルキメデスの冠の話では、言い切る文と伝聞の文が分かれる。湯船からあふれる湯を見て答えに気づき、裸のまま家へ走りながら、ギリシア語で「見つけた」と何度も叫んだ。ここまでは言い切りである。
しかし、続く実験の話は「と言われる」で始まる。冠と同じ重さの金と銀の塊を作り、口まで水を張った器に順に沈め、取り出したあと口まで戻すのに要る水を量り比べた、という。ガリレオは若いころの小論『小さな天秤』で、この方法は単純すぎると考え、天秤を水の中で使う方法を示した。
てこの言い伝えは、プルタルコスの『マルケルス伝』に出てくる。アルキメデスはヒエロン王に、与えられた力でどんな重さでも動かせると書き送り、もう1つ地球があってそこへ行けるならこの地球を動かしてみせると言い放った、と伝えられる。
冠を水に沈めてみる
「見せ方」を「王冠」にすると、重さ1,000 gの冠と金の塊が天秤の両側に下がる。銀の割合が30%なら、冠の体積は64.8 cm³で金の塊より13 cm³大きいのに、口の直径20 cmの器であふれる水を比べると、水面の差は0.41 mmにすぎない。天秤に吊るしたまま水に沈めると、見かけの重さは935.2 gと948.2 gで、13 gの差がそのまま傾きに出る。銀を10%に減らすと水面の差は0.14 mmまで縮むが、天秤はまだ4 gほどの差で傾く。
天才の子ども時代と晩年の話
子どものころや若いころの逸話は、年老いた本人のそばにいた年下の人が、本人の死後に書き残したものが多い。
ガウスの石板の話を書いたのは、ゲッティンゲン大学の鉱物学と地質学の教授、ザルトリウス・フォン・ヴァルタースハウゼンである。ガウスが亡くなった翌年の1856年に、『ガウスの思い出』を出した。
それによると、ガウスは1784年、7歳を過ぎてブラウンシュヴァイクの学校に入り、2年後に計算の組へ進んだ。教師のビュットナーが等差数列の和を求める問題を出すと、ガウスはすぐに石板を机に投げ出し、土地の言葉で「そこにあるよ」と言った。授業の終わりに裏返すと、数が1つだけ書かれたガウスの石板が正しく、ほかの多くは間違っていた。
ザルトリウスはこれを、晩年のガウスが楽しそうに何度も語った出来事として書いている。
ニュートンのリンゴも、本人の口から出た話である。1726年4月15日、医師で古物研究家のウィリアム・ストゥークリは、ケンジントンのニュートンの住まいで食事をともにした。暖かい日で、2人だけで庭に出て、リンゴの木陰で茶を飲んだ。
回想録によると、83歳のニュートンは、重力の考えが浮かんだのはちょうど同じような場面だったと話した。物思いにふけって座っていると、リンゴが落ちた。なぜリンゴはいつも地面へまっすぐ落ち、横にも上にも行かないのか。回想録の表紙の年は1752年で、ニュートンの死から25年がたっていた。
ところが、ストゥークリは、リンゴが落ちた年も場所も書いていない。それを補うのが、ニュートンの姪の夫ジョン・コンデュイットの草稿だ。年を書くところは空いたままだが、疫病で再びケンブリッジを離れ、リンカーンシャーの母のもとにいたとき、庭で考えにふけるうちに、リンゴを木から落とす重力が月の高さまで届いているのではないかと思いついた、とある。
ガリレオのランプを書いたヴィヴィアーニは、1639年から、目の見えなくなったガリレオの家に住み込んで学んだ。1654年にまとめた『ガリレオ伝』には、ピサの大聖堂にいたある日、ランプの動きから振り子で時を測る方法をつかんだ、と書かれている。言い伝えでは1583年ごろ、ガリレオが19歳のころのことである。
晩年の話で最も確かなのは、アルキメデスの墓である。プルタルコスによれば、アルキメデスは、円柱に球が収まった形を墓に置き、外の立体が中の立体を上回る比を刻むよう、身内や友人に頼んだと言われる。
紀元前75年、財務官としてシチリアにいたキケロは、墓に刻まれていると聞いた詩句を覚えていた。シラクサの人々は、そんな墓は無いと言った。キケロが町の有力者たちと、墓の多いアグリゲントゥム門の近くを見渡すと、茨と藪の茂る中から、球と円柱の形を載せた小さな柱が少しだけ頭を出していた。藪を刈らせると、後半の削れた碑文が現れた。
死から137年後に、書き手が自分の目で見たものの記録である。
確かめると違っていた話
原典を開いて初めて分かるのは、そこに何が書かれていないかである。
いちばん詳しく調べられているのは、ガウスの石板の数だ。アメリカの科学ライターのブライアン・ヘイズは、8つの言語で100を超える版を集め、2006年の記事で比べた。ザルトリウスの本には「1から100まで」という数も、1と100、2と99を組にして101を作る解き方も出てこない。
ヘイズの調べた範囲では、「1から100」と101の組が初めてそろって現れるのは1938年のビーベルバッハの伝記だ(1からnまでの和の起源の章)。
ほかの言い伝えにも、原典に無い細部や、あとから名前の足された話がある。
- ニュートンのリンゴは、ストゥークリの回想録でもコンデュイットの草稿でも木から落ちるだけで、頭には当たっていない。
- ピサの大聖堂にいま下がっている「ガリレオのランプ」は、ガリレオがピサを離れたあとに吊るされたものだと、歴史家ファヴァーロが示した。ガリレオのころのランプは、いまは隣の墓所の礼拝堂にある、とガリレオ博物館は説明している。
- アルキメデスの最期の言葉として知られる「私の円を乱すな」は、1世紀のウァレリウス・マクシムスの本では、地面の図を両手で覆って言った「頼むから、これを乱さないでくれ」で、「円」の語は無い。リウィウスは図形に気を取られていて殺されたと「伝えられている」と書き、プルタルコスは最期について3つの話を並べたまま、どれとも決めていない。
- 宮廷の数学者が代数の式をつきつけてディドロを黙らせた話は、ティエボーが1804年ごろに出した回想録に出てくる。ティエボーは真偽を知らないと断り、数学者の名前も書いていない。「名前は書かれていないが、それはオイラーであった」と足したのは、1872年に出たド・モルガンの『パラドックスの予算』である。
- ディードーが牛の皮で土地を囲んだ話は、ウェルギリウスの『アエネーイス』も、皮を細い紐に切らせたと書くユスティヌスの抄録も、囲んだ形に触れていない。半円で海岸を使ったという続きは、数学の本の側が足した読み方である。
- フェルマーの余白の書き込みは、1665年にフェルマーが亡くなったあと、息子のサミュエルが1670年にトゥールーズで出した『算術』で初めて活字になった。書き込んだ年は記録に無い。
もう1つ、ピタゴラスが鍛冶屋の槌の音から協和音の比を見つけたという1〜2世紀のニコマコスの話は、数は正しいのに、書かれたとおりに試すと鳴らない。
おもりを2倍にした弦
ニコマコスの話では、ピタゴラスは槌と同じ重さのおもりを弦に吊るし、重さ2対1の弦からオクターブを聞いた。張力のつまみをおもりの重さとみると、36 Nで基音は231.5 Hz(A♯3)、倍の72 Nでも327.4 Hz(E4)で、上がるのは半音6つ分にとどまる。4倍の144 Nなら463.0 Hz(A♯4)で、ちょうど1オクターブ上である。振動数はに比例し、長さには反比例する。ディオゲネスは、ピタゴラスが一弦琴で音程を見つけたと書く。駒で鳴る長さを変える一弦琴なら、長さの比がそのまま音の比になる。
記録までの距離
7つの言い伝えを、残っている記録と、書き手と本人との距離で並べた。
| 言い伝え | 残っている記録 | 書き手と本人 |
|---|---|---|
| アルキメデスの冠と風呂 | ウィトルウィウス『建築について』、死の約200年後 | 会っていない。実験には「と言われる」 |
| アルキメデスの墓 | キケロ『トゥスクルム荘対談集』、死の137年後に墓を見た | 墓を自分の目で見た |
| ピタゴラスの生け贄 | ウィトルウィウス、キケロ、ディオゲネス | 会っていない。キケロの対話篇の話し手は信じない |
| ガリレオのランプ | ヴィヴィアーニ『ガリレオ伝』、1654年 | 最後の3年間そばにいた |
| ニュートンのリンゴ | ストゥークリの回想録、1752年 | 1726年に本人から聞いた |
| ガウスの石板 | ザルトリウス『ガウスの思い出』、1856年 | 晩年の本人がくり返し語った話 |
| オイラーとディドロ | ティエボーの回想録、1804年ごろ | 真偽を知らないうわさ |
表で目を引くのは、記録までの年数より、書き手が何を見聞きしたかのほうが、話の確かさを分けていることだ。キケロが見た柱の球と円柱は、アルキメデス自身が『球と円柱について』で、体積の比が2対3になると示した組である。
ストゥークリとザルトリウスの記録は、本人がそう語ったという証言になる。ただし、晩年の本人が若いころを語り直した話で、出来事を見た人の記録ではない。
後から付いた部分には共通点がある。1から100というきりのよい数、オイラーという有名な名前、「私の円を乱すな」という短い台詞、頭に当たるリンゴという絵になる動き。どれも話を短く、覚えやすくする。
逆に、話の中の数と式は、原典を離れても検算できる。3、4、5の直角も、円柱と球の3対2も、等差数列の和も、言い伝えが本当でも作り話でも正しい。
数と式は式として、場面は記録として別々に読めば、言い伝えは疑うだけのものではなくなる。
言い伝えのある公式を年の順に
下のマスには、この事典で「伝説」のタグを付けた公式が、年の順にすべて並ぶ。2026年10月27日の時点で19本あり、この特集で触れなかったアキレスと亀の等比級数、パルテノン神殿の話が残る黄金比、タレスのオリーブ搾り機の話が付いたブラック・ショールズ方程式も入っている。
振り子の周期の記事はランプの話を載せているが、このタグではなく「偶然の発見」のタグで引ける。
参考文献
- Vitruvius, De architectura, Liber IX, praefatio 4〜14(J. Gwiltの英訳をLacusCurtiusで、ラテン語の本文をThe Latin Libraryで参照)
- Cicero, Tusculanae disputationes V 64〜66、De natura deorum III 88(The Latin Library)
- Diogenes Laertius, Lives of Eminent Philosophers VIII 12(R. D. Hicksの英訳、1925年。Wikisource)
- Plutarch, Life of Marcellus 14、17、19(B. Perrinの英訳。LacusCurtius)
- Livius XXV 31、Valerius Maximus VIII 7 ext. 7、Vergilius, Aeneis I 365〜368、Iustinus XVIII 5(The Latin Library)
- W. Stukeley, Memoirs of Sir Isaac Newton's Life (1752), Royal Society MS/142、J. Conduitt, Keynes Ms. 130.04, King's College, Cambridge(The Newton Projectの翻刻)
- B. Hayes, "Gauss's Day of Reckoning", American Scientist 94 (2006), 200-205.
- F. A. T. Winnecke, Gauss. Ein Umriss seines Lebens und Wirkens (Braunschweig, 1877).(ガウス生誕100年の記念の冊子。Project Gutenberg)
- Museo Galileo, "Cathedral of Santa Maria"、"Monumental Cemetery of Pisa"(Scientific Itineraries in Tuscany)、"Galileo Galilei, La bilancetta"(展示「Archimedes」)
- A. De Morgan, A Budget of Paradoxes (London, 1872; D. E. Smith ed., 1915), "On some philosophical atheists".
- Salisbury Cathedral Library, catalogue record of Diophanti Alexandrini Arithmeticorum libri sex (Toulouse, 1670).
- MacTutor History of Mathematics, "Pierre de Fermat"、"Vincenzo Viviani"、"Fermat's last theorem".